2018年8月5日礼拝説教 「実に、あなたがたこそ!」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一3章17~20節

実に、あなたがたこそ!

 

 今日の箇所に入りますと、手紙の内容はテサロニケ教会からパウロ自身のことに移ります。パウロ自身の気持ち、パウロにとってのテサロニケ教会の兄弟姉妹の存在について書き綴られています。

 パウロはかつて激しい迫害のためにテサロニケの町を出なければなりませんでした。そのためパウロは今日の箇所の冒頭で、「わたしたちは、あなたがたからしばらく引き離された」と書いています。引き離されたという言葉は、家族が別れ別れになることが語源になっています。大きな痛みを伴う別れです。家族のような親密な関係にあったパウロとテサロニケ教会が、今や引き離されている。この悲しみ、不安、痛みを、パウロはこの言葉に託しました。このような中で出てくるのは、「会いたい」という思いです。しかも、テサロニケ教会は迫害のなかで苦しんでいることが分かりきっているのです。だから会いたい。会って兄弟姉妹の様子をこの目で見たい。そして直接手を差し伸べて、助けたい。これがパウロの思いです。パウロは実際に彼らに会いに行こうとしました。「殊に、わたしパウロは一度ならず行こうとした」と行動を伴う強い思いを書いています。

 しかしながらこの手紙を書いたとき、事実としてパウロはテサロニケにはいないのです。思いと行動が違うじゃないかという迫害者の批判が、事実だけを見ればパウロに当てはまってしまう面があるのです。これを説明するのが「サタンに妨げられた」という言葉です。パウロはサタンの働きを実際的なものとして捉えています。サタンの働きとは、人々が神のもとへ行こうとする道を妨げることです。そのような働きが、実際的にわたしたちの周りでも働いています。ただしパウロがサタンのことを書くときに、サタンを好き勝手に神に逆らう者として描いてはいません。第二コリント12章7節では、パウロが思い上がらないようにするという神の御心のために、サタンが用いられています。サタンの働きすらも神の御支配の中にあるのです。サタンの妨げは、神の御心による妨げでもあるのです。ですからサタンの妨げにあったときにこそ、神の御心、つまり神がどのようにしてわたしたちを導こうとしているのかに目を向け続けることが重要なのです。さてこのようなサタンの妨げのなかで、テサロニケに行くことができない事情がパウロにはあったわけです。しかし今日の箇所でパウロが伝えようとしているのは、そのような状況の中にあっても変わらないテサロニケ教会への強い愛の思いです。ではこのような思いはどこから来るのでしょうか。その根拠は、わたしたちの主イエスが来られるときにあるのだと19節でパウロは書いています。ここでパウロの目は、過去や現在ではなく未来に向けられています。過去にこれをしてくれたからあなたがたを愛している、ではないのです。今自分を助けてくれるからあなたがたを愛している、でもないのです。それは未来において、しかも神を信じる者にとって決定的に重要な主イエスが来られるときにおいて、あなたがたがわたしたちの希望、喜び、誇るべき冠となってくれるからなのです。将来主イエスが来られるときが重要なのは、そのときにわたしたちは自らの歩みについて神の御前で申し開きをしなければならないからです。では神の御前にわたしたちが立ったときに、何がわたしたちの希望であり、喜びであり、誇りの冠となるのでしょうか。言い方を変えるならば、わたしたちが将来神の御前に立ったときに、どのようなことを「よしよし、お前は良くやった」と神様に褒めていただけるのでしょうか。パウロにとってそれは、「あなたがた」、すなわちパウロの働きによって建てられた神の教会です。この教会のゆえに、パウロの使徒としての働きを神から褒めてもらえるのです。このためにパウロは宣教したのです。ですからテサロニケ教会の兄弟姉妹は、パウロにとっての自らの働きの何よりの報酬なのです。実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです、と20節で書いているとおりです。だからこそパウロは、テサロニケ教会の兄弟姉妹をこれほどまでに深く愛し、彼らに会いたいと切に願ったのです。

 わたしたちの人生において最後に自らの報酬として残るのは、このような共に神を称え合う愛の関係なのです。わたしたちは自らの人生のなかで、自分が何をしたかを誇ろうとします。しかし最後に残るのは、自分が何をしたかではありません。自らの歩みにおいて生み出された神を称えあう愛の交わりです。教会の交わりなのです。ここにこそわたしたちの生きる目的があります。人の生きる目的について明確に教えているのは、ウェストミンスター小教理問答の問1です。

問1)人のおもな目的は、何ですか。

答)人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。

ここで語られているのは「人のおもな目的」、つまり「人間みんなのおもな目的」です。ですから、わたしたちの周りにいる人々がこのように生きるようになることを心から願い、祈り、与えられた賜物でできることをなすことがわたしたちの生きる目的でもあるのです。ですから、宣教が大切なのです。それと同時に、いま共に礼拝している兄弟姉妹がとても大切なのです。この兄弟姉妹が、将来わたしたちが神の御前に出たときにも神様に「よくやった」と言ってもらえる誇りの冠だからです。パウロは言います。

「実に、あなたがたこそ、わたしたちの誉れであり、喜びなのです。」

 今ここにいるわたしたちにとっては、実に、共に礼拝に集っている兄弟姉妹こそ、互いの誉れであり、喜びなのです。この素晴らしい教会の交わりが与えられていることに感謝しつつ、新たにここに加えられる人々が起こされるよう、祈り、共に労苦していきたいのです。