2018年7月29日礼拝説教 「現に働く神の言葉」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一2章13~16節

現に働く神の言葉

 

 説教題にある「現に」とは「まぎれもない事実」であることを示す言葉です。まぎれもない事実として、神の言葉がわたしたちの内に働いていることを信じきることができるかどうかに、わたしたちが神の御心に従って生きることができるかどうかが、かかっています。

 今日の箇所でパウロは神への感謝を書き表します。それは、やっかいな迫害者がテサロニケにいたにもかかわらず、テサロニケ教会が信仰を守り抜いていたからです。この事実を、パウロは13節で神の言葉が実を結んだ結果として記しています。テサロニケ教会の人々は神の言葉を神の言葉として受け入れて、それに従って歩み、そして迫害に耐えました。そのように歩んだあなたたちの内に、神の言葉が現に働いているとパウロは書くのです。そしてその神の言葉は、今を生きるわたしたちの内にも現に働いているのです。続く14節では、テサロニケ教会がユダヤのキリスト・イエスに結ばれている神の諸教会に倣う者となったことが記されています。どのような面で倣う者となったかと言えば、それまで仲間だった同胞から苦しめられる者となったという面です。神の言葉を受け入れ、キリストを自らの救い主と信じる。すると必ずそれまで仲良くしていた一般社会の人々との衝突を生みます。迫害されるのです。このことは、ユダヤ地方に生まれた最初期のキリスト教会から今日に至るまで変わらず信仰者が経験してきたことなのです。

 では、神の言葉を受け入れることによって生じる迫害とは、いったい何でしょうか。パウロは15節以降でユダヤ人による迫害に触れています。迫害の最たる例は、神の御言葉である主イエスを十字架にかけて殺したことです。加えて旧約聖書の時代に、彼らの先祖が預言者たちをも殺しました。預言者とは、神の言葉を語る者です。神の言葉を語る預言者たちを殺し、神の言葉である主イエスを殺したのがユダヤ人です。つまり迫害とは、神の言葉を殺すことです。また彼らは、異邦人を救うために神の言葉を語り伝えていたパウロの働きを妨げました。これも神の言葉の働きを殺す、迫害行為です。神の言葉は、それ自身が世界中に救いをもたらすために外へ外へと広がろうとする力を持ちます。それに逆らって、神の言葉を殺すこと。これが迫害の正体です。このようにしてパウロと教会を迫害していたユダヤ人の心の内にあったのは、自分たちこそが特別に神に選ばれて救われた民であるという特権意識です。彼らは、神を知らない不信仰な他の民族の人々に神の言葉が不用意に広がっていかないように、パウロや教会を一生懸命迫害しました。これは、彼らにとって神に仕える信仰の行為でした。しかしそのような彼らの行動によって、彼らは自分自身の罪をあふれんばかりに増やしており、神の怒りが余すことなく彼らの上に臨むのだと、パウロは激しく非難するのです。

 ここでわたしたちは自分自身のことに立ち戻って考えたいのです。迫害と聞くと、わたしたちは自分が迫害される側で考える傾向があります。しかしここでパウロが語っているユダヤ人の行動は、わたしたち自身と無関係ではないのです。彼らは不信仰者ではなく熱心な信仰者です。自分は神に近い者だという特権意識のなかで彼らは迫害し、結果的に神の言葉を殺すことになったのです。パウロが避難するユダヤ人の迫害の一つが、16節にある「妨げる」という行動です。この行動は、実は主イエスの弟子たちもしてしまったことなのです。代表的な記事は、ルカ福音書18章15節以下です。ここで弟子たちは、乳飲み子を主イエスのところに連れてきた人々を叱りました。そんな彼らに対して主イエスは「妨げてはならない」と言われました。パウロの働きを妨げたユダヤ人と、主イエスのもとに来る子供たちを妨げた弟子たち。彼らに共通する思いは、自分が特別神に近い存在であると理解する特権意識です。この特権意識は、わたしたちの内にもあるのです。自分は特別に神の近くにお仕えしている存在だ。自分とは反対に、一般常識も身についていないあの人は救われるはずがないので、御言葉を語らない。ときには礼拝に来ている気のあわない人々を非難し、教会から追い出そうとする。この行為は、わたしたちと無関係ではないのです。こうすることで、ときにわたしたち自身が神の言葉を殺す迫害者になるのです。この世において、迫害がない状態は存在しません。迫害されながらも神の言葉にしたがって御言葉を宣べ伝えるか、迫害する側に立って神の言葉を殺すかのどちらかです。この二つを分けるのは、わたしたちの内に神の言葉が現に働くか否かということにかかっているのです。結局わたしたちに求められていることは、わたしたちの内にある神の言葉の働きを邪魔しないこと、妨げないことです。しかしわたしたちが心の中にもともと持っているのは、神の言葉を殺す迫害者の心の方です。そのようなわたしたちの思いを超えて、神はわたしたちの内に神の言葉を現に働かせてくださっているのです。キリストの十字架と復活は、神の言葉を殺そうとするわたしたち人間の思いに、神の言葉が勝利した出来事として見ることができます。神の言葉を殺そうと怒り狂うわたしたちの思いに勝利して、神の言葉はわたしたちの内に現に働かれるのです。それまで神の言葉を殺して迫害していた者から、迫害されてでも神の言葉に仕える者へとわたしたちを変革する力、これがわたしたちの内に現に働く神の言葉です。この神の言葉の働きに仕える時にこそ、世界全体に救いをもたらす神の言葉は、その力をいかんなく発揮するのです。また、わたしたちが神の言葉に仕えて生きるときに、わたしたちは怒り狂う迫害者としてではなく、神に愛された神の民として平和のうちに歩むことが許されるのです。

 さてわたしたちは、神の言葉を殺す迫害者でしょうか。神の言葉に仕える者でしょうか。どちらでしょうか。神様から問われています。