2018年7月22日礼拝説教 「幼子のように、母親のように、父親のように」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一2章1~12節

幼子のように、母親のように、父親のように

 

 パウロは喜びの内にこの手紙を書き始めました。激しい迫害にもかかわらずテサロニケ教会は信仰を守りぬいていたからです。1節の「無駄ではなかった」という言葉にそれが反映されています。「無駄」と訳されている言葉は「空っぽ」とか「空虚」を意味する言葉です。テサロニケでの宣教は人間の空虚な思いでなされたものではなく神の御業だったのだと、パウロは1節と2節で語り、今日の箇所全体にわたってそれを示しているのです。

 なぜパウロはこのことを、テサロニケ教会の人々に示そうとしたのでしょうか。それはテサロニケ教会の迫害が、いまだ楽観できる状況ではなかったからです。テサロニケには、教会の人々を福音から引き離そうとする誘惑者がおりました。誘惑者は福音そのものを否定するだけではなく、福音を伝えたパウロという人物を否定しました。つまりは、「パウロ先生は、自分の名誉や利益のために宣教したのだ」と言ったわけです。伝道が成功するか否かは、伝道する者の生き方にかかっています。いくら正しく御言葉を語ったとしても、語る者が損得勘定で行動していたらどうでしょう。内容としては伝わるかもしれません。しかしそれは、その人の危機の時を支えるような信仰とはならないのです。損得勘定で結ばれた関係を、自分が損をしてまで保とうとする人はいないからです。テサロニケ教会の誘惑者は、まさにこの点を突いて、パウロは結局損得勘定で動いているのだと言ったのです。これに対してパウロは、「テサロニケ宣教がそんな人間の空虚な思いによってなされたのではなく、神の御業でなされたのだ」と1,2節で示すのです。

 続く3,4節ではパウロの宣教の働きの動機と目的が示されます。3節では

「わたしたちの宣教は、迷いや不純な動機に基づくものでも、また、ごまかしによるものでもありません。」

と語ります。では、パウロの宣教は一体どのようなものだったのでしょうか。それが4節に示されています。それは第一に、神に認められ、委ねられた働きです。ですからそれは、どこまでも神の働きなのです。第二にパウロの働きは、わたしたちの心を吟味される神に喜んでいただくために行われました。福音宣教の主目的は、神が宣教を望んでおられ、わたしたちが宣教することによって神が喜んでくださるからです。宣教だけに限らず、わたしたちのあらゆる生き方にこのことが当てはまります。これが教会的な働きと、他のあらゆる慈善活動を決定的に区別するのです。隣人を愛することを望まれる神のために働くからこそ、わたしたちは損得勘定を超えてその人を愛し、その人のために宣教するのです。

 5節以降には、パウロがテサロニケ教会の人々に対して実際になした行動が記されています。ここに記すパウロの過去の行動が、4節までに記したパウロの宣教の動機と目的にかなっていることを示そうとしたのです。5節でパウロが書くのは、自分が相手にへつらうことをしなかったということ、そして自分が何か口実を設けて利益を求めることをしなかったことです。彼が否定しているこれら二つの行動に共通するのは、言葉と心の乖離です。心では自分の利益を求めながら、言葉では何か理由をつけてそれを取り繕う。このようなことをわたしはしなかったと、パウロは示すのです。それをより明らかに示すためにパウロは6節以降の言葉を続けます。6節以降でパウロが語るのは、自分は本来なら正当に受け取ることができた利益すらも受け取らなかったということです。それは、第一に人間の誉れです。パウロは神の使徒として重んじられて当然なのに、幼子のようになったのです。この時代の幼子は、取るに足らない者、軽んじられている者、愚かな者です。パウロは、本来重んじられて当然なのに、愚かな者のようになってテサロニケの人々に接したのです。そのように接したほうが、神の福音を受け入れてもらいやすいと判断したからです。これは金銭的な報酬についても同様でした。パウロは使徒として報酬を受けて当然の立場にいました。しかし日夜働いて誰にも負担をかけなかったことが9節で記されています。そのほうが、キリストが相手に受け入れられやすいと考えたからです。神の福音を伝えるために、自分の利益を脇においてなんでもしたいと願う姿がここには示されています。この姿をパウロは、母と子の関係に例えています。育児は、損得勘定では絶対にできません。損得勘定を超えた関係が母と子の関係です。それだけでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどだとまで書いています。パウロはそのような思いで、父親がその子供に対するように、テサロニケ教会の兄弟姉妹が神の御心にそって歩むように励まし、慰め、強く勧めたのです。神の御心とは、ご自身の国と栄光をみんなに与らせることです。この神の御心を伝えるために我を忘れて何でもする姿が、「幼子のように、母親のように、父親のように」という言葉によって示されているのです。

 世において、人間関係を計算しながらその人との関係の深さを調整する生き方が推奨されています。それによって、人間関係が大変希薄になっています。伝道に関して、また隣人を愛することに関して、今日の御言葉がわたしたちに教えるのはそのような歩みではありません。相手が神を知りキリストを信じるために、我を忘れる生き方です。これは、ご自身の国と栄光を与って欲しいと願う神の喜びを、またそのために自らの命をも惜しまれなかったキリストの喜びを、自らの何よりの喜びとする生き方です。それはすなわち、誰かが今までよりも一歩でも半歩でも神に心を向けたなら、それを心から喜ぶ歩みです。この喜びは、危機のときにも決して失われることはありません。自らの損得を計算する生き方ではなく、神の喜びのために我を忘れる生き方にこそ、絶えることのない喜びの人生が備えられているのです。