2018年7月15日礼拝説教 「神への信仰が伝えられる」

 

聖書箇所:テサロニケの信徒への手紙一1章1~10節

神への信仰が伝えられる

 

 この手紙でパウロは喜びを表現しています。しかし、単純にテサロニケの教会がつまずくことなく、順調に教会形成し続けていることを喜んでいるのではありません。テサロニケの教会は、激しい迫害の中に置かれていました。それ故に、パウロはやむなくテサロニケを離れなければなりませんでした。迫害の中で、テサロニケ教会は信仰を失ってしまってはいないか。パウロはそのような心配のなかにありましたが、テモテの知らせによってテサロニケ教会が迫害に耐えていると知り、喜びのなかでこの手紙を書いたのです。この喜びをパウロは2節で神への感謝として表現しています。

 テサロニケ教会が迫害のなかで耐える様子が、3節に反映されています。

「あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、わたしたちの主イエス・キリストに対する、希望をもって忍耐している」

ここには信仰、愛、希望という三つの言葉が記されています。これらは、神がキリストにあって与えられる永遠の命に必ず伴うものとして理解されていました。パウロは迫害に耐えるテサロニケ教会の姿に、信仰と愛と希望を見ています。故に、確かにあなたたちは神に愛されて選ばれており、確かに神の守りの内にあるのだと、パウロは4節で記すのです。ここに記されている信仰と愛と希望は、それぞれに業と労苦と忍耐という行動と結びつけられています。だからこそ彼らは周辺の信者の模範となり、彼らの神への信仰が至るところで伝えられているのです。このような、テサロニケ教会の人々の行動が神の力によることを、パウロは今日の箇所全体にわたって強調しています。特徴的なのは5節の御言葉です。

「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです。」

ここでの言葉とは御言葉のことではなく、誰もが話している一般的な言葉を指しています。これは、皆が納得するような世の知恵と理解してもいいでしょう。テサロニケ教会の人々がパウロの伝えた福音を受け入れて主イエスを救い主として信じたのは、世の知恵による説明や説得による故だけではないのです。そこに神が働かれたのだと、パウロは記すのです。

 これはわたしたちの信仰にも当てはまる面があります。もちろん論理的な説明を、わたしたちは決して軽んじてはなりません。ただそれでも、わたしたちの信仰の根幹をなす主イエスの復活の出来事や、主イエスが再び世に来られてすべての涙をぬぐってくださるということは、世の知恵で論理的に説明することは不可能です。しかしわたしたちはそのことを、聖書に書いてあるから、信じているのです。わたしたちだけではありません。10節を見ますと、テサロニケ教会の人々も迫害のなかでこのことを信じていたことが分かります。世の知恵では不可解に思えるようなこれらの事柄を信じて、しかもそのために真剣に生き続ける人々が、この新約聖書の時代のテサロニケの町に起こされて、そして今に至るまで起こされ続けているのです。そこに神の力と聖霊の働きがあるのです。この神のお働きによって、わたしたちは主イエスによる救いに、強い確信を持ち、その確信にしたがって生きるのです。テサロニケ教会では、それが迫害に耐えるという行動によって現れたのです。

 テサロニケの町でパウロの伝えた御言葉を受け入れて主イエスを信じることは、迫害によって酷い苦しみを受けることとイコールでした。それにもかかわらず彼らは、聖霊による喜びに満たされて御言葉を受け入れたのです。「受け入れた」という言葉を、ある英語訳の聖書では「welcome」と訳しています。彼らは決していやいや御言葉を受け入れたのではありません。迫害されても、喜びに満たされて御言葉をウェルカムしたのです。わたしたちもこの姿に、見倣ってまいりたいのです。ただ、このようなテサロニケ教会の姿は、主を信じていない人々からすれば不可解であり、主を信じている他の教会の信仰者から見ても驚くべきものだったでしょう。テサロニケ教会の人々の行動の中にこの不可解さや驚きがあったからこそ、彼らはマケドニア州やアカイア州の信者の模範となり、また彼らの神に対する信仰が至る所で言い広められたのです。

 イギリスのジャーナリスト、ハームズワースは、「犬が人を噛んでもニュースにはならないが、人が犬を噛んだらニュースになる。」と言っています。すなわち犬が人を噛むというよくある出来事はニュースにならないが、人が犬を噛むという不可解で驚くべきことが起こったならばニュースになると言うのです。伝道ということに関しても、似たような面があります。まだ主を信じていない人が、キリストの希望に生きる信仰者に対して驚きや違和感を持つところから伝道が始まるのです。キリストの復活や、キリストが再び天から来られる、といった世の知恵を超えたところにある御言葉をウェルカムして、そこに示されたキリストにある希望を持って生きるときに、主を信じていない人は信仰者に驚き、違和感を持つのです。未信者には違和感を伴うこの神への信仰こそが、世に伝えられていくのです。

 キリストの希望に生きることは、伝道に益するだけでなく信仰者自身にも大きな力を与えます。世の知恵を超えたキリストを信じるがゆえに、世の知恵では絶望せざるを得ない状況に置かれても、その希望は決して失われることはないのです。迫害のなかでテサロニケ教会を支えたのも、この希望でした。そしてこの希望に生きる時に、キリストへの希望に共に与る者がわたしたちの周りに起こされていくのです。すべては、わたしたち自身が御言葉に堅く立ってキリストにある希望に生きるところから始まります。この希望こそが、わたしたちだけでなくこの世界をも救うのです。