2018年7月8日礼拝説教 「仕える者となるために」

 

聖書箇所:ヨハネによる福音書13章1~17節

仕える者となるために

 

 この箇所にはキリストの教会が歩むべき一つの姿が示されています。ここで主イエスは弟子たちの足を洗います。そして「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と命じます。当時、足を洗うのは奴隷の仕事です。ですからここに、仕える者となれという意味が込められていることは明白です。キリストの教会とは、仕える教会です。わたしが浜松伝道所で牧師としての働きを始めるに当たって、この姿を目指したいと願っています。ここにいるお一人お一人にも、このキリストの姿に習うものとなっていただきたいのです。大切なことは、それを主イエスが命じたようになすということです。

 主イエスは確かに奴隷のように弟子たちの足を洗われました。そして互いに同じようにするようにと命じられました。それならば、身分の低い奴隷のようになって、自分自身を押し殺して、自己犠牲の精神で互いに仕え合いなさいと、主イエスは弟子たちに命じておられるのでしょうか。そのように理解することは、できないのです。なぜなら主イエスは、ただ単に奴隷の行動をそのまま真似たわけではないからです。もし奴隷の行動をそのまま行うのであれば、足を洗うタイミングは部屋に入った時でなければなりません。当時はサンダル履きですので、外を歩くと足が汚れてしまうからです。しかし主イエスが弟子たちの足を洗ったのは、食事の途中です。この“足を洗う”という行動の意味を知るために注目したいのが、上着を脱ぐ、着るという記述です。主イエスが弟子たちの足を洗う前に上着を脱いだことを、わざわざヨハネは書いています。「脱ぐ」という単語は、ヨハネ福音書の他の箇所において、主イエスが羊のために命を捨てること(10章11節)、主イエスが墓に葬られること(19章41,42節)を意味する語として用いられています。したがいまして、主イエスが上着を脱ぐのは十字架の死を象徴していまして、12節で上着を着るのは復活を象徴しているのです。よってその間に挟まれた“足を洗う”という行為が示すのは罪の贖いです。

 主イエスが弟子たちの足を洗う行動に反応する形でペトロの二つの発言、すなわち足の洗いを拒む発言と、もっと洗ってほしいと望む発言という、両極端な二つの発言が記されています。この二つの発言は、わたしたちもよくしてしまいがちな二つの態度をよく表しているように思います。まずは、主イエスの足の洗いを拒むこと。それはわたしたちが、主イエスによる罪の贖いに寄り頼まないことです。その場合、結局は自分の中にある何かに寄り所を求めることになります。たとえ僕のように仕えるときにも、仕えている自分の行動に誇りを持つならばどうでしょう。それはキリストの罪の贖いではなく、自分の行動に寄り所を求めることになります。自分は主イエスに贖っていただいた。この思いがすべての行動の土台としてあるかどうか。これが、主イエスが命じたとおりに仕えるものとなれるか否かの分かれ目です。続いて、足だけでなく手も頭も洗ってほしいと願うこと。わたしたちに当てはめるならば、主イエスによる罪の贖いを受けたのに、あたかも救われていないかのように、「わたしはだめです」と思い続けてしまう。このような思いに対して主イエスは、わたしの贖いのゆえにあなたはもう全身が清いのだと宣言されるのです。

ペトロの両極端な二つの発言と主イエスのお答えから、わたしたちは誰もが主イエスの贖いを受けなければ救いに値しないこと、しかしそのようなわたしたちが主イエスの贖いによって確かに救われたことが示されます。自らがそのような者であることを覚えて、主イエスに救われた喜びのなかで互いに足を洗いあうようにと主イエスは命じるのです。弟子たちの足を洗うという主イエスの行動は、この箇所において主イエスの愛の行為としても描かれています。ですから今日の「足を洗う」という行為は「愛する」という言葉に置き換えて理解することができます。すなわち今日の箇所で主イエスはまず弟子たちを愛し、互いに愛し合いなさいと命じるのです。そして主イエスはこのことを、13章34,35節で次のようにはっきりとお示しになるのです。

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 わたしたちがこのような歩みをするためには、どうしたらよいでしょうか。そのように歩むためのコツを主イエスは16節で示しておられます。大切なことは「まさらない」ということです。その根本は、自分の力で頑張らないということでありましょう。キリストに遣わされた者として、主イエスに背中をポンと押ししていただいた者として、わたしたちは人々に仕えていくのです。しかも主イエスは、まずご自身が誰よりも低い僕としてわたしたちに仕えてくださいました。そして、誰よりも深い愛をもってわたしたちを愛してくださいました。この主イエスの愛と奉仕によって救われた者として、その喜びのなかでわたしたちも人々に仕え、愛するのです。

 キリストによる罪の贖いは、決して抽象的な出来事で終わるものではありません。わたしたちが今受けているすべての恵みの根底に、キリストの贖いがあります。主イエスの時代から今に至るまでわたしたちの信仰の先輩方が、このキリストの贖いに示された愛に動かされて人々に仕えてきました。それ故に、今わたしたちはここにいるのです。キリストの贖いの故に、わたしたちは今日大きな喜びの内に入れられています。この喜びに押し出されて、人々に仕える教会とならせていただきたいのです。キリストの恵みをいっぱいに受けて、それによって動かされる教会を共に築いていきましょう。