2018年6月3日礼拝説教 「大祭司の祈り」

2018年6月3日

聖書=ヨハネ福音書17章1-5節

大祭司の祈り

 

 主イエスは、告別説教を終えると、目を天に向けて祈り始めました。天にいます父なる神との語らいです。主イエスは、今までも弟子たちから離れて静かに祈りの時を持ち続けました。これから十字架の受難の時を迎えようとしています。この時に、主イエスは天を仰ぐのです。この祈りの姿勢に、私たちも学ばなければなりません。私たちも人生の大事に当たって時間をとって神に祈ることを大切にしたいと思います。ここでは弟子たちを離れて一人祈ったのではなく、弟子の見ている前での祈りです。弟子たちもこのように祈れという祈りの見本と言っていいでしょう。

 主は、「父よ」と呼びかけます。「父」はヘブライ語「アッバ」です。「父よ」という呼びかけは、この祈りの中で4回(1,5,21,24)、さらに11節「聖なる父よ」、25節「正しい父よ」を加えると6回の呼びかけがなされます。「アッバ」は本来、ユダヤ人の幼児語で「お父さん」です。父と子という親しい交わりの中にある祈りです。旧約の中では、神を父と呼ぶことは少ない。神を父と呼ぶことは主イエスが弟子たちに教えた特別な呼びかけの言葉と言っていい。親しい父と子の交わりの中での呼びかけです。私たちも主イエスと結びついて「父よ」と祈ることができるのです。

 主イエスは「時が来ました」と祈り始めます。どういう「時」か。かつて主は「わたしの時はまだ来ていない」と言われました。宗教改革者カルヴァンは「時が来たとは、人の気まぐれな欲望によって定められた時ではなく、神から定められた時のことである」と記します。周囲の人によって「今こそ、立つべき時だ」と言われた時に、イエスは「わたしの時はまだ来ていない」と言われた。人は自分の都合に合わせて、「今こそ、立ち上がる時だ」と言う。しかし、主イエスにとり「時」とは、父なる神の御心の実現の時、神の御心が成就する時ということでした。

 主イエスにとって「時」とは、神の意志に従う時でした。主イエスにとって、この「時」は特別な意味を持っていました。弟子たちとの別れの時と言うだけのことではありません。主イエスが救い主として父なる神から遣わされた使命を果たすべき時でした。旧約時代、大祭司は年に1度、民に代わって、民のために、至聖所に入って罪の贖いをしました。主イエスは私たちの大祭司としてご自身を神の小羊として捧げて、民の罪の贖いをする時が来たと言われたのです。父なる神は、この「時」のために御子を遣わされたのです。罪人の罪を担って十字架を担う時なのです。主イエスは、この十字架の時を自覚して「時が来ました」と言われているのです。

 大祭司としての主イエスの祈りの第一は、「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」です。「子に栄光を与えてください」、これが祈りの主文です。「栄光」はドグザという言葉で、ヨハネ福音書理解の鍵となる言葉です。ヨハネ福音書1章14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記されています。「栄光」は、ヨハネ福音書の初めから終わりまで縦糸のように全体を貫いている大事な言葉です。

 実は、キリストは最初から栄光を持っていました。「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」と言われました。神の御子は永遠から神としての栄光を持っておられた。ですから「持っていた」と過去形で語られた。しかし、御子は肉体をとり、人となられました。その時、その栄光を人としての貧しさの中に隠されました。あるいはその栄光を「無にされた」。フィリピ書2章6,7節「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。主は、父と同じ栄光を持つお方です。ところが人となられた時に、その栄光を無にされたのです。

 今再び、「子に栄光を与えてください」と祈る。どうしてか。主イエスは、これから十字架の苦難を迎えます。十字架の惨めな死は嫌だ、元の神の子としての輝かしい栄光を返してくれと言うことか。そうではありません。主イエスはご自分の時と使命を知っておられます。この受難こそ神の御子の栄光なのです。「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」。普通の栄光ではないことが分かります。十字架の死において神の栄光を表してください、という祈りなのです。神の栄光は、罪人の回復、罪人の救いにおいて表されるのです。イエスが血を流して罪人の贖いをする時に、御子の栄光があり、また父なる神の栄光が表されるのです。十字架の惨めな死、苦しみと悩みの死、これほど人間的には栄光からほど遠いものはありません。敗北と挫折と呪いの死です。

 しかし、私たちはこの惨めな十字架のイエスのお姿の中にこそ本当に神の栄光があることを知っています。世の多くの人の目には惨めな死としか見えない。しかし、この十字架こそ神の栄光なのです。神の勝利なのです。ここにおいて神の義が貫かれたのです。神が神となり、同時に罪人が赦され、救われるのです。これが神の栄光なのです。

 

 「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」。ここに救いがあるという呼びかけの言葉です。「永遠の命」とは神が与える救いの全体です。十字架のキリストを知ることが、永遠の命です。神とキリストを知るとは知識の量を増やすことではなく、キリストに見つめられていることを知ることです。弟子たちはイエスとの出会いによって神とキリストを知ったのです。このお方は自分を愛し、自分に呼びかけ、交わりの中に入れてくださった。「知る」とは、主イエスの呼びかけを受け入れることです。主イエスは今も、私たちを見つめて「わたしに従いなさい」と呼びかけておられます。