2018年5月13日礼拝説教 「わたしにつながっていなさい」

2018年5月13日

聖書=ヨハネ福音書15章1-10節

わたしにつながっていなさい

 

 主イエスは「わたしはまことのぶどうの木である」と言われました。主は御自身を神のいのちに溢れるぶどうの木に例えました。ぶどうの木は、外見的にはあまり立派な木とは言えません。しかし、主イエスは父なる神にしっかりつながっています。神の御子で永遠のいのちを持つお方です。私たちはいのちの源であるキリストに結ばれて霊的ないのちをいただいて信仰生活をするのです。大事なことはキリストにつながることです。

 「キリストにつながる」のは信仰によるのです。「つながる」とは接ぎ木されると言っていい。私たちはイエスを「私の救い主・キリスト」と信じます。この信仰が私たちをキリストに結ぶのです。信仰は聖霊の働きです。聖霊が私たちの心に働いてキリストを信じよう、キリストを信じて生きていこう、キリストを信じます、と信仰の決断をさせてくださいます。この信仰が私たちをキリストに結ぶのです。この結合は目で見ることは出来ません。「神秘的結合」と言われます。聖霊の働きで、キリストという活ける幹に接ぎ木され、つながれ、結ばれている一枝、一枝なのです。

 キリストにつながる時に、恵みといのちにあずかり、主と共に生きる生活をすることになります。すると自ずと実が結ばれます。霊的な新しいいのちに生きる結果として与えられるのです。主は「実を結びなさい」とは一言も語りません。「わたしにつながっていなさい」です。キリストと結ばれていない枝は無用のものとして、農夫である主なる神が大胆に切り捨てます。実を稔らせるためです。よくするには手入れが必要です。実のならない枝をそのままにしておくことは、木の力を失わせます。

 木につながっていれば、自ずと実を結ぶ。「つながっていなさい」とは「持続・継続」を意味し「つながり続けなさい」です。1度つながったら、そのままというのではない。キリストを信じ続け、キリストが私たちの内に住んでくださることです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。キリストを信じて生きるところで、主御自身が私たちの中に生きてくださいます。キリストの内住です。私たちの中にキリストが住まいしてくださいます。当然、実を結ぶことになります。

 では、キリストにつながり続けるために、私たちはどうしたらいいのか。第1に、主イエスは「わたしの言葉があなたがたの内にいつもある」ことだと言われました。神の言葉を心の中に蓄えることです。神の言葉である聖書を読むことを離れてキリスト教信仰はありません。聖書を読んで、心の中に神の言葉を蓄えることです。「わたしは年を取って、もう記憶できません」と言われます。御言葉を蓄えることと記憶することとは全く違うことです。記憶力の問題ではなく、生きる姿勢の問題です。

 いつも新しく聖書に向かい、御言葉に耳を傾け、御言葉によって心砕かれて生きる生き方です。1つか2つかのわずかな言葉であっても、その御言葉に感動して生きるような生き方のことです。日毎に、朝ごとに聖書を読む。その中で、御言葉の恵み深さ、深い意味を考え、甘美さを味わうようにすることが、御言葉を蓄えることなのです。

 第2は、キリストの愛にとどまり続けることです。主イエスは「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」と言われます。これがキリストにつながり続ける秘訣です。キリストの愛のど真ん中にとどまり続けるのです。イエスが弟子たちを愛された愛とは、十字架の死によって表された贖罪の愛です。罪人である私たちを愛し、私たちの身代わりとなって罪を贖ってくださった愛です。この赦しの愛の中にとどまり続けるのです。私たちの信仰の原点です。

 原点とは、いつもそこに立ち戻る場所です。悩みや課題を抱えて、信仰が分からなくなった時、立ち戻る。信仰者であっても罪を犯し失敗します。「もう、私は駄目だ」と言って離れ去るのではない。ここに立ち戻って赦しを得るのです。それが主イエスの十字架の愛です。ここから離れてはならない。キリスト者とは、十字架の愛の中にとどまり続ける者なのです。すると、豊かに愛と喜びという実を稔らせることが出来ます。安心していていい。次第に、自ずから、愛と喜びという実を稔らせることになります。

 ある注解者は、「キリストにつながり続けること」を解説して、具体的に「どんなことがあっても、教会を離れてはいけない、ということだ」と語っています。私もその言葉を結論にしたい。キリストにつながり続けることは、具体的、実際的には教会につながり、教会にとどまり続けることなのです。教会から離れて信仰生活をすることは実際的に出来ません。古代教会の指導者は「教会の外に救いなし」と語りました。誤解されやすい言葉ですが真実です。私たちは教会を離れては救いを失っていくのです。

 自分一人で信仰生活は出来ると考え、教会から離れると周囲はすべてこの世です。この世の中に流されます。この世の考え方、この世の勢いに押し流されます。神とキリストを考える大切な時を失います。その結果、信仰を失い、キリスト者であることを見失います。結局、外に投げ捨てられて枯れてしまいます。教会には面倒くさいところもあるかもしれません。しかし、教会は弱い私たち一人ひとりを互いに守り合うためのものです。御言葉が語られ、祈りがなされ、聖餐が行われて、キリストの御言葉を私たちの内に蓄えさせてくれるのは教会です。互いに祈り合い、励まし合い、支え合っていくのが教会です。教会は、キリストにつながり続け、キリストの十字架の愛にとどまり続けるために、キリスト御自身がお造りになられたものです。私たちは教会から離れてはならないのです。

 

 教会という交わりは、私たちがキリストにつながり続けるためのものなのです。キリストにつながり続けて神のいのち、聖霊のいのちを受け続けていくのです。教会から離れないでキリストにつながり続けてください。キリストにつながって豊かに実を結ぶ人生となってまいりたい。