2018年4月29日礼拝説教 「この囲いの外の羊も」

2018年4月29日

聖書=ヨハネ福音書10章16-21節

この囲いの外の羊も

 

 私は牧師になって以来、どこでも市内の教会の牧師たちの集いに関わってきました。同じ町で伝道する同労の先生方との交わりは楽しいですし、違った考え方に接することのできる大切な機会であると思ってきました。自分の教派では得られない多くの祝福を頂戴しました。ところが浜松では福音派の集まりはありますが、教団やルター派、バプテスト、カトリックまでも含む広い交わりがありません。さみしいなあ、と感じてきました。

 私は浜松に赴任する前、先輩の石丸新先生、長老教会の村瀬俊夫先生と共に「リフォームド神学事典」の翻訳・編集にたずさわりました。基本的な願いがありました。それは自分たちの立場を絶対視しないで、自分たちの立場を相対化して見ることを願ったからです。改革派、長老派系の人は他の立場に対して閉鎖的になりがちです。それを打破したいというのが「リフォームド神学事典」の編集にたずさわった理由の1つでした。

 主イエスは「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」と言われました。十字架を間近にしてのイエスの遺言と言ってよい。主イエスの視線は遠くまで伸ばされています。壮大なスケールでキリスト教会の在り方を預言しています。良い羊飼いとしてのイエスのみ心が、ここに示されている。

 イエスによって語られた「この囲いに入っている」羊とは、どういう人たちか。今日、私たちキリスト教の立場で読んで、この「囲いの中に入っている羊」とは、我々キリスト教会のことであると考えてしまうのではないか。そうではない。「この囲いの中にいる羊」とは、旧約の神の民、イスラエルを意味しているのです。主イエスもこのことは認めておられます。主イエスご自身「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ福音書15章24節)と言われ、弟子たちにも「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ福音書10章6節)と命じておられます。主イエスの第一の使命は、実はこの旧約の神の民であるイスラエルの救いのためです。

  しかし今、主イエスは「この囲いの外にも」わたしの羊がいると言われた。「この囲いに入っていないほかの羊」の群れとは、どういう人たちか。これこそイエスの弟子たちです。イエスの弟子たちは、やがてほとんどが異邦人となります。異邦人キリスト者のことを指しているのです。ユダヤの民は自分たちは神を知っている神の民であるが、異邦人は神を知らない失われている人々であると考えてきた。異邦人は「囲いの外」なのです。

 しかし、主イエスは異邦人の中に「わたしの声」、つまりキリストの声を聞いて、キリストに従う人々が起こってくると言われた。異邦人の中にも神の民がいる。いや、異邦人こそキリストの声に聞く神の民だと言われたのです。これは当時のユダヤ人には革命的な言葉と言っていい。イエスは、神の民は旧約のイスラエルだけではない、異邦人の中にこそまことの神の民がいるのだと言われたのです。その異邦人からなる羊の群れを導いて一つの群れにするのは何によってか。キリストが命を捨てる十字架の死によってです。主イエスが十字架で死ぬことによって、旧約の神の民だけでなく、異邦人からもキリストの声に聞き従う者たちが起こされて、神の民に加えられることになるのだと言われたのです。

  主イエスは、旧約の選民イスラエルを救うためだけにこの世界に来られたのではなく、むしろ異邦人を救うためでした。そして、旧約の神の民と異邦人の神の民とを一つにして、一つの神の民、一つの群れにするために、この世に来られたのです。パウロは、旧約の神の民と異邦人とが今まで互いに反目し合っていたが、その敵意をイエスが十字架によって滅ぼしてしまい、両方の者が1つに結ばれて、キリストの羊となり、神に近付くことが出来るようになったと記した。これが「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ということです。これが公同の教会なのです。

 ここに「新しい囲い」が出来たと言っていい。この新しい囲いは民族などの見える形ではありません。「その羊もわたしの声を聞き分ける」ということです。27節にも同じことが語られています。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」。キリストの声を聞き分けることが新しい囲いだと言ってよいでしょう。民族と国籍を越え、社会的な階層を越え、性別を越えて、キリストの声を聞き分けて、キリストにあって1つのものとなるのです。

 旧約の神の民・イスラエルは結果的に「キリストの声」を聞き分けることが出来なかった。それに対して、今まで囲いの外にいた人たち、異邦人がキリストの声を聞き分けて従ったのです。「キリストの声を聞く」とは、具体的には聖書に聞くことです。私たちはどこでキリストの声を聞くのか。聖書以外ありません。聖書においてイエス・キリストが伝えられ、キリストが証しされています。キリストの語られた言葉、キリストのなされたみ業が記されています。聖書を通してキリストの声を聞くのです。

 

  ここで私たちが学ぶべきことは、自分たちだけが神に愛されている選びの民だとうぬぼれをやめることです。私たちはなかなか自分たちの外のことを考えられません。しかし、主イエスは私たちの思いをはるかに超えて、さらに広いところにもキリストの民がいることを示しています。聖書が解き明かされ、キリストの言葉が語られ、聞かれているらば、そこにキリストの羊があるのです。聖書が解き明かされ、聖礼典が守られているならばキリストの教会であることを認めるべきです。自分たちと少し違う考え方、違う礼拝の持ち方をしていても、キリストを信じているのであれば、互いに認め合い、交わりを持つことが求められているのです。やがて終末において一つの群れとなるのだということを信じてまいりたい。