2018年4月22日礼拝説教 「よい羊飼い」

2018年4月22日

聖書=ヨハネ福音書10章1-15節

よい羊飼い

 

  主イエスは「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と言われ、よい羊飼いの姿を描き出します。よい羊飼いは、羊を我が子のように大切にし、名前をつけ、羊の特徴や性質をよく知っています。羊と一緒に寝起きし、羊の名前を呼ぶとその羊が近付いてくる。夜は囲いの中に集めて保護し、門番をおいて番をします。朝になると、羊飼いたちは自分の割当の羊を呼び出します。名前を呼んで健康状態などを見ながら連れ出し、草のある牧場に導いていく。迷ったり野獣の餌食にならないように、羊の先頭に立って道を示しながら進んでいく。ここには詩編23編に出てくる羊飼いの姿が描かれているのです。

 主イエスが言葉で描いた「たとえ」です。しかし、この羊飼いの姿を描いた「たとえ」の意味がユダヤ人ファリサイ派の人たちには「何のことか分からなかった」。ここに「見える」と主張するファリサイ派の人たちの見えない姿があるのです。日常的に見ている。しかし、見るべき事柄が見えていない。ファリサイ派の問題ですが、今日の私たちも無関係ではありません。自分は真理を知っている。キリストが分かっていると思い込んでいるとしたら、私たちも見るべきものを見ることが出来なくなっている。

 7節以降は1節から語った羊飼いの「たとえ」の解説です。第1に学ぶことは「わたしは羊の門である」と言われたことです。門は羊が出入りするところです。この門がキリストであると言われている。「わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」と言われます。キリストを通らないでは神の国に入ることは出来ません。私たちの前にはいろいろな人生の門があると言っていい。仏教や神社も多くのご利益を約束し、その門に入らせようとしています。そういう中で、キリスト教はあまり見栄えもしないし、この世的な繁盛などのご利益も約束しない。多くの人は世の広い門に入っていく。けれど、本当に救いを与えるのはキリストという狭い門しかない。この門は狭く、人の目につきにくい。

  主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われました。このイエスという門を通って道を歩む時、神の子とされて永遠の命という祝福をいただくことが出来るのです。この門を通って入る者が救われ、牧草にありつくことが出来る。この救いは神と正しい関係に立つことです。神を父として、その子となるという関係が与えられるのです。キリストを信じ、キリストを仲立ちとして神の子とされる時、私たちのすべての必要が満たされるのです。この世における必要も、永遠の世界におけるいのちの必要も備えられるのです。「牧草にありつける」のです。この門であるキリスト以外には救いがないということを明確にされたのです。

  もう1つ学ぶことは「羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。他の者たちの声を知らないからである」というみ言葉です。主イエスの描く「たとえ」にも、解説の言葉の中にも盗人や強盗が出てきます。門から入らないで、塀を乗り越えてやってきます。羊の群れは教会です。教会の中には、いつの時代でも、塀を乗り越えてやって来る盗人や強盗がいます。

 パウロもエフェソ教会の長老たちに警告している。「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れます」(使徒言行録20:29,30)。キリスト教の歴史は、この狼たちとの戦いの歴史でもあった。どの教会、どの教派でも分裂やごたごたを経験しています。狼は光の天使の姿をしています。狼が最初から狼の姿であれば問題なく分かります。教会の指導者たちの場合は、最初は立派なリンゴであったものが、途中で痛み、腐敗し、その腐敗が全体を腐敗させてしまう。立派な指導者であったが、いつの間にか光の衣を着た狼になっている。見極めがしにくいのです。そして、教会はしばしば混乱し、時には分裂するようなことも起こる。

  けれど、教会は不思議に立ち直っていきます。一時混乱しますが、いやされていくのです。それは羊自身の中にまことの神の声を聞き分ける力があるからです。一時期は盗人や強盗の声に掻き回されます。しかし、しだいに、これは違う、羊飼いの声とは「どうも違う」と、判別するようになる。そして盗人や強盗の声に従わずに、羊飼いの声のところに戻ってくるのです。羊には羊飼いの声を聞き分ける力、能力が備わっているのです。考えてみると、羊飼いの声を聞き分ける力があるから、いろいろな門がある中で、教会の門をくぐり、キリストを信じることが出来たのです。

  昔のことになります。学生時代、あるデパートでアルバイトをしたことがあります。小さな女の子が迷子になって託児の場に連れてこられた。泣きっぱなしで、だれが声をかけても、どんなにしても泣き止みません。係りの人は困り抜いていた。しばらくし、お母さんが駆け込んできました。「……ちゃん」という声が聞こえました。まだ姿は見えないのに、その女の子は出口の方に走っていきます。お母さんに抱き抱えられたときには、もう泣き止んでいました。今でも時折、思い出す光景です。

  主イエスは、羊飼いと羊の関係になぞらえて、主イエスと私たちとの関係を「羊は、その声を知っているので、ついて行く」と言われました。私たちは主イエスの言葉を、神の言葉を本能的に聞き分けるのです。ある聖書の注解者は「羊が羊飼いの声を耳にするや否や、羊の体内にいのちが走る」と記しています。まことの羊飼いの声に反応するものを本能的に持っているのです。ですから、私たちはイエスを信じることが出来るのです。母親の声を聞いた幼児が駆け寄るように、私たちは羊飼いであるキリストのもとに走り寄ります。このような生き生きとした喜ばしい関係が、私たちと羊飼いであるキリストとの間にもあるのです。