2018年4月15日礼拝説教 「神の業が現れるため」

2018年4月15日

聖書=ヨハネ福音書9章1-12節

神の業が現れるため

 

  主イエスが道を通って行かれます。すると「通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた」。主イエスは障がいを持つ人、貧しい人、除け者にされている人などをいつも心にかけておられました。イエスご自身が貧しく過ごされたからです。主イエスは今も、障がいを負い、苦しみや課題を抱えて悩んでいる者に気づいて目を留めて下さるお方です。

  その様子を見て、弟子たちがイエスに尋ねます。この箇所は、主のいやしのみ業の前に弟子たちとの問答が記されています。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。このような質問は、私たちもするのではないか。神の創造の世界の中で、なぜ、光の射さない、見えないという苦悩が存在するのか。今日の私たちも合理的に納得できない深刻な課題です。ですから、弟子たちも生まれつき目の見えない人を見て、疑問を率直に尋ねた。

 ここには因果応報論が横たわっている。因果応報とは、人間の障がいや不幸は何らかの意味で人間が犯した罪の報いであるという考え方です。仏教が最も代表的なものですが、必ずしも仏教だけではない。古くから人の不幸の原因はどこにあるのかと深く考えてきた。その考えが、人間の不幸は人の犯した罪の結果であるという因果応報論となっている。人は不幸の原因を尋ね、先祖の祟り、前世の因縁と、理屈をつけて納得しようとします。しかし、これくらい当事者を困らせ、悩ませるものはありません。

  旧約聖書にも因果応報論は出てきます。ヨブ記です。ヨブという人が富も家族も健康もすべて失った。彼は敬虔な生活を送ってきた。ところが友人たちはヨブのあまりの悲惨さを見て、これは彼が隠れたところで大きな罪を犯した結果ではないかと論じ悔い改めを勧めた。この友人たちの考え方が因果応報論です。悲惨な結果がある。これは、どこかで、だれかが罪を犯し、その結果、罰を受けているのだという考え方です。

  主イエスはこの因果応報論や過去思考には耳を貸しません。弟子たちの問いに対して違った視点からお答えになる。先ず、こう言われました。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」。イエスは、これは本人の罪の故か、親の罪か、社会の罪かなどと詮索はなさらなかった。この障がいを「だれかの罪」とまったく考えない。この人の見えないという障がいとその苦しみは、この人自身やその家族や先祖の罪ではないと明らかに語られた。私たちもいろいろな障がいを持ってこの世に生を受けます。具体的な障がいだけではありません。多くの病と弱さを負って生まれてきている。五体満足であっても社会的な大きな欠落の中に生まれてくる場合もあります。すべてが生きる苦悩であり、障がいなのです。

 そして、それは決して、その人自身の罪でも、家族の罪でもない。障がいとその苦しみとを罪との関わりからはっきり切り離されたのです。主イエスが第1にはっきりさせたことは、この点です。私たちキリスト者は因果応報論や過去思考からはっきり解放されていることを覚えていきたい。

  主イエスは続けて言われます。「神の業がこの人に現れるためである」と。このお言葉はすばらしいお言葉です。しかし、信仰を持たない方にすぐに分かる言葉ではない。信仰をもって人生の意味をよく考えないと分かりにくい言葉です。人生の意味をキリストにあって受け止めないと反発されることもある。しかし、キリスト者の信仰生活はここにかかっています。

 弟子たちの問いとイエスの答えの間には大きな溝があります。それは人生のとらえ方です。弟子たちは、生まれながら目の見えない苦しみの原因は誰のせいだ、だれの罪だと責任を尋ねた。それに対して、主イエスは人生における苦難の目的と意味を考えているのです。人生の意味とは何かということをもってお答えになったのです。苦難を過去的・結果的なこととして問題にするのではない。それでは宿命論を乗り越えることは出来ません。しかし、苦しみの意味と目的を問うことは、人の生き方の意味と課題とを問うことなのです。そこから大きく新しい展望が開けてまいります。主イエスは弟子たちの問いの内容を大きく方向転換させたのです。

 弟子たちの目を、人生における苦難の本当の意味に気づかせることに向けさせた。過去へさかのぼるのではなく、将来から、これから神がなさろうとしていることから説明しようとしている。主イエスが「神の業が」と言われた時、これから、この目の見えない人に対して、この人において、神がなさろうとしている事柄から見ているのです。この人において、この人の身において主イエスが、何をなさるのかにかかっているのです。

  この人の身において神の恵みのみ業がなされる。そこに、この人の担ってきた苦難の意味があるのです。私たちが苦しみを担ってこの世を生きる意味がここにあります。この目の見えない人だけの問題ではありません。この人は苦しみを担って生きる私たちの代表、私たちの姿なのです。神の恵みのみ業が行われる時に、どんな人間の不幸も惨めな境遇も意味を持つのです。不幸のどん底にある人にでも、すばらしい恵みのみ業がなされるのです。むしろ、暗ければ暗いほど、恵みのすばらしさが映えてくる。私たちの苦しみ多き人生は、神の恵み深さとすばらしさとを証しする栄光の舞台として用いられるのです。苦しみ多き私たちの人生が神の恵みのみ業を表す舞台として用いられ、この身において主の栄光が現されるのです。

 

 この目の見えない人は、この後、イエスによって大きく用いられます。彼は、信仰とはどういうことなのかということを、その身体で現していきます。主イエスは、目の見えない人において親の罪や前世の因縁ではなく、この人の生きる姿の中で神の御業が現れるためだと教えられたのです。苦しんで生きる意味は、その生涯、その人の歩みの中で、神の恵みの御業が現れるためなのです。私たちの人生は、神の栄光を映し出す舞台なのです。キリスト者の苦難に満ちた人生が生きる意味を獲得していくのです。