2018年4月8日礼拝説教 「イエスの言葉を聞いて」

2018年4月8日

聖書=ヨハネ福音書4章39-42節

イエスの言葉を聞いて

 

 サマリアの女に関わる最後の箇所です。信仰の自立という課題が記されています。教会の中で、あの人に導かれて教会に来たけれど、あの人のこんなところが嫌になってしまった。だから教会を辞めると言う声を聞くことがある。教会はこのような不協和音でぎしぎしすることがある。キリスト者になっても、本当に自立した信仰者として成長していないのです。

 この箇所を理解する鍵は、「女の言葉によって、イエスを信じた」と「イエスの言葉を聞いて信じた」の2回の「信じた」という言葉に注意することです。同じ言葉ですが、同じ意味なのでしょうか。

 出来事を見てまいりましょう。神の恵みによって罪が赦され、主イエスの愛に包まれた彼女は、この恵みを伝えようと心の底から突き動かされた。水がめを残したまま、町に行って人々にイエスのことを伝えた。今まで人目を避けて生活してきた女が、町の人々の前に立って堂々と証しをする人に変えられた。キリストとの出会いを経験すると、生き方が大きく変わります。主はその証しを用いて多くの人を救いに導いて下さいます。主イエスを信じて罪の赦しを実感するなら、私たちも変わります。神は、私たちの言葉と生活を用いて主の証人として下さるのです。

 町の人は、彼女の言葉にどう反応したか。「証言した女の言葉によって、イエスを信じた」。これが第1段階です。なぜ、町の人は信じたのか。彼女の証しの言葉と共に、彼女の変えられた姿を見たからです。これまでの彼女の生き方は悪評に満ちていた。そのため、人目を避けて日陰者のように過ごしてきた。その女が人目を避けずに堂々と自分の過去を語り、罪が赦された恵みを語り出した。自分が赦されていることを生き生きと語る姿に驚いた。彼女の言葉を裏打ちする彼女の姿があった。

 彼女の語ることとその変わった姿を見て、町の人はこのように彼女を変えたイエスを信じたのです。彼女はすばらしい伝道者でした。ローマ書10章14節に「宣べ伝える人がいなければ、どうして聞くことができよう」と記されています。彼女の伝える証しの言葉によって、その変えられた姿を見ることによって、人々はイエスに導かれ、イエスを信じたのです。これは確かに信仰です。私たちが入信する時、牧師や信仰の先輩たちの言葉に導かれて主イエスを信じます。信仰の先輩や牧師の言葉に信頼しての信仰です。確かに主イエスを信じているのですから救いは間違いありません。

 しかし、その信仰の根拠は牧師や信仰の先輩たちに置かれている。幼い信仰と言うことが出来る。信仰の根拠を置いている牧師や信仰の先輩に何らかの不信感が生まれたら、その信仰が危なくなることもある。牧師の不注意な言動や信仰の先輩の言動につまずいたり、逆に彼らの激しさについていけないことも起こります。いわゆる「つまずき」の問題がある。

 サマリアの町の人たちはイエスに「自分たちのところにとどまるように頼んだ」。主は彼らの願いを聞かれて、なお「2日間そこに滞在された」。「2日間」という期間が大事です。十分な交わりが出来る時間と言っていい。主イエスが二日間という時間をとってサマリアの町の人たちに、直接、福音の言葉、神の言葉を伝えたのです。サマリア人たちに神の恵みと愛、信仰の事柄をしっかり教えられたのです。今まで間接的に、女性から聞いた福音をイエスご自身から直接、十分な時間をとって聞くことができた。

 その結果が、「さらに多くの人々が、(直接)主イエスの言葉を聞いて信じた」のです。これが信仰の第2段階です。女の言葉を聞いても信じなかった多くの人も信じるようになった。さらに、女の言葉によって主イエスを信じた人たちも、彼女にこう語っている。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」と。

 伝道者にとって、これは喜ばしい言葉です。この言葉を言い換えると、こうなります。「私たちが最初に主イエスを信じたのは、あなたの証しの言葉によったのです。あなたの変えられた姿を見て、あなたの言葉を聞いて、このように人を造り変えて下さるイエスを信じた。けれども今、イエスにお会いして、直接学んで、私たちは主イエスが本当の救い主だと自分自身で納得し、確信したのです」と。私たちが信仰に入るためには周囲の人の証しの言葉、導きの言葉が必要です。導いてくれる人が必要です。それによって、イエスに導かれ、イエスを信じる。しかし、本当に信仰が確立するためには、直接に主イエスの言葉に耳を傾けることです。

 全ての信徒に信仰の自立が求められています。人に影響されないで自分の信仰を守り抜いていくことです。自分で聖書を読んでいくことが出来る。自分で祈ることができる。自分で信仰的な判断が出来る。自分のためだけでなく教会や隣人のために心配りが出来る。これらが信仰の自立なのです。信仰の自立が出来ないと、いつまでも人に依存することになる。人に失望すると、信仰までも失われることになってしまう。牧師に失望しても、自分を信仰に導いてくれた先輩に失望しても、どんなことが起こっても、信仰を失わないことが信仰の自立なのです。

 

 サマリアの町の人々は、はじめ「女の言葉によって」イエスを信じました。語る人がいなければ、主を信じることは出来ません。しかし、主イエスに2日間滞在していただき、直接、主イエスからお言葉を聞き「この方が本当に世の救い主であると分かった」と言いました。同じ「信じた」ですが、女性の証しの言葉で信仰に入った段階と、直接主イエスから教えられて分かった信仰の段階とは明らかに異なります。信仰の自立のためには、自分で聖書を読み、聖書の総合的な理解である教理をしっかり学ぶことが求められているのです。私たちは人を通して、人を介して、主に導かれます。そして、イエスをメシア・キリストとして紹介した伝道者・証し人は役目を終えて静かに後ろに退きます。伝道者として見事な消え方です。