2018年3月25日礼拝説教 「墓に葬られたイエス」

2018年3月25日

聖書=ヨハネ福音書19章38-42節

墓に葬られたイエス

 

 受難週礼拝です。主イエスも人として死に、そして葬られた。ハイデルベルク信仰問答は、イエスの葬りについて1つの問答をしている。問41「なぜこの方は『葬られ』たのですか」。答「それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです」。イエスも死んで葬られた。ハイデルベルク信仰問答は「なぜ」と尋ねる。イエスに葬りは不必要だからか。そうではない。ハイデルベルク信仰問答は、葬りはイエスの死の確認だと語る。本当に死んでしまった。このことを確認することだと語る。

 イエスは死者の一人となり葬られた。ここに福音を読みとらなければならない。私たちも死にます。人である限り、肉体の死は必ずある。私たちも死んで葬られます。その死者の世界もキリストと無関係ではない。主イエスが通られた世界です。讃美歌第1編532番で「主の受けぬ苦しみも、主の知らぬ悲しみも、うつし世にあらじかし、いずこにも御あと見ゆ」と歌います。主のみ足の跡は「現世」だけでなく、死者の世界にもあるのです。主イエスは私たち人間が味わうすべてのことを味わわれた。死の世界も主イエスが通られたところです。私たちも主イエスに結ばれ導かれて通るのです。そして主がよみがえられたように私たちもよみがえる。

 主イエスの葬りの出来事を巡って二人の人物が登場します。アリマタヤ出身のヨセフとニコデモです。福音書記者の関心はイエスの葬り自体よりも、むしろこちらにあると言っていい。アリマタヤのヨセフについて「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」と記す。彼が、どこで、どのようにしてイエスに出会い、弟子となったかは分からない。彼が隠していたからです。主イエス以外、他の弟子たちも知らなかった。マルコ福音書15章に「アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフ」と記され、マタイ福音書27章では「アリマタヤ出身の金持ち」と記されている。アリマタヤ地方の有力者で金持ち、最高議会の議員です。彼の地位と名誉がイエスの弟子であることを公にすることを妨げていた。

 アリマタヤのヨセフの信仰は煮え切らない中途半端なものであった。ヨハネ福音書12章42,43節に「議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表しませんでした。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである」とある。アリマタヤのヨセフもこの類いの人ではなかったか。決して弁護できることではありません。

 しかし、隠れてきたアリマタヤのヨセフが今、公然と姿を現した。「イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た」。弟子たちはイエスを見捨てて逃げ去ってしまった。その時、遺体の取り下ろしと葬りを総督ピラトに申し出た。十字架刑に処せられた犯罪人を自分に葬らせてくれと申し出るのは勇気がいった。この勇気は、どこから出たのか。イエスの十字架刑を一部始終見ていたからと言う以外ない。イエスが捕らえられ、取り調べを受けた。サンヘドリンの議員も同席していた。裁判から、むち打ち、ゴルゴダへの道行き、十字架につけられる様子とイエスのお言葉の一つ一つを、アリマタヤのヨセフは全部見ていた。聞いていた。

 マルコ福音書に、イエスを処刑したローマの「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」と告白したことが記されている。アリマタヤのヨセフも、イエスの取り調べ、十字架のお姿を見、その言葉を聞いて、今までの生ぬるい、人目を意識した信仰から人目を恐れない信仰に変えられたのです。

 もう一人の人がやってきた。ニコデモです。ニコデモについては「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモ」と記されている。問題ある人物としての紹介の仕方です。ニコデモは、人目を忍んで、夜こっそりとイエスを訪ねて来た。その時、主イエスは「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われた。その時、彼も心の中では信じたでしょう。しかし、アリマタヤのヨセフと同じように、人目を気にして隠れキリシタンのように生活してきた。

 彼も、社会的な地位のゆえに信仰を隠してきた。しかし、イエスの審きに立ち会い、イエスの真実のお姿を見、十字架におけるお言葉を聞いて、本当に新しくされたと言っていい。人目を恐れる生き方から大きく方向転換した。ニコデモも決断した。自分もイエスの弟子であると。彼は「没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」。百リトラは約32キロで、たいへんな量です。彼の全財産と見ることが出来ます。主イエスへの信仰を確立したニコデモは彼の全財産を、主の葬りにおいて捧げたのです。

 この葬りの出来事を通して学ぶのは、弱い信仰者を非難してはならないことです。信仰を明らかにしないような人を裁きがちです。信仰を明らかにしないことはほめられたことではありません。人目を気にし、世の評価や名誉を求めることは信仰の本筋からはずれています。しかし、いつまでも弱い信仰者のままであるかどうかはだれにも分かりません。弱さの中にいる兄弟たちを裁いてしまうようなことは慎まねばなりません。

 

 強い信仰者が惨めな敗北をすることがあります。ペトロは大事なところでイエスを知らないと3度も否定した。多くの弟子たちも逃げ去ってしまった。ぎらぎらするような勇気は簡単に変わってしまう。パウロは「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(Ⅰコリント10:12)と警告しています。弟子たちが逃げ去った後、危険を顧みずに主イエスの遺体の取り下ろしと埋葬をしたのは、まことに弱く隠れた弟子であったアリマタヤのヨセフとニコデモであったことを忘れてはならない。神は、弱さの中にある人をも守り、お用いになられます。神は人を造りかえる力を持ち、死んだ者を生き返らせるお方なのです。