2018年4月1日礼拝説教 「空虚の墓」

2018年4月1日

聖書=ヨハネ福音書20章1-10節

空虚の墓

 

 イースター礼拝です。キリスト教信仰の出発点はキリストの復活にある。十字架で犯罪人として処刑され墓に葬られた人が復活した。ここがキリスト教信仰の起点です。弟子たちが復活物語を作り上げたのではない。復活を起点として「このお方は、どういう方なのか」と受け止め直し、イエスの生涯をまとめていった。イエスの復活を歴史的な事実として支えるのが、1つは空虚の墓です。もう1つが復活のイエスを見たという目撃証言です。この2つが主イエスの復活の事実性を支える根拠なのです。

 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」。この時、マグダラのマリアにとって「週の初めの日」は待ち遠しかった。主は十字架から降ろされ、アリマタヤのヨセフとニコデモによって埋葬された。女性たちは主のお顔を見ることも出来なかった。今日、葬儀にある程度の時間をかける理由がここにある。死んですぐに葬ってしまわない。親しかった者たちが故人の顔を見て悲しむ時間、悼む時間が必要なのです。悲しみの思いを形にしたい。ここに葬式の意味がある。マグダラのマリアにとっては、まだ告別が済んでいないのです。

 他の福音書ではさらに多くの女性が一緒に墓に行っている。墓に行った女性たちの代表としてマグダラのマリアが取り上げられている。彼女たちは死んだイエスとの告別のために香料と香油を持って墓に急いだ。「イエス様のために、あれもしたい、こうもしたい」と思っても、安息日が終わらないと何もできない。息を潜めるようにして「週の初めの日」を待ち、早朝、彼女は墓に急いだ。そこで彼女はイエスの墓に異変があるのを見た。「墓から石が取りのけてあるのを見た」。この時代のお墓は崖のようなところに小腰をかがめて入れる程度の横穴を掘って遺体を納め、入り口に大きな石を立てかけて蓋とします。石が取りのけられてあるから中を見ることが出来る。驚いて中を覗いて見た。墓の中は空虚でした。

 「そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。『主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、私たちには分かりません』」。「主が墓から取り去られました」、これは問題のある翻訳です。「誰かが」という主語が省かれている。「主が」ではなく、「主を」となる。口語訳「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたか分かりません」。「誰かに」奪われた、「誰かに」持ち去られたというのが、この時のマグダラのマリアの理解でした。

 この知らせにペトロたちも驚いた。「ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った」。二人で墓に入って見たが、「亜麻布が置いてあった」だけです。イエスの遺体を納めた墓に間違いありません。しかし、イエスの遺体がない。どうしたのか。どう考えたらよいのか。「誰かに」奪われたと考える以外なかった。「いったい、誰がこんなことをしたんだ」、弟子たちの頭の中にいろいろな思いが横切ったでしょう。彼らは不思議に思いながらも「家に帰って行った」。これが弟子たちの姿でした。どうしたのだろう、何が起こったのか。イエスの遺体がないという現実に触れて、空虚の墓の現実をあるがままに受け止めた。

  この弟子たちの惨めな姿を示す言葉が「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」です。ここでの「聖書の言葉」とは、具体的に旧約のどの言葉であるかは分かりません。実は復活のことを語った旧約の個所は極めて少ない。この「聖書の言葉」は、イエスが生前に語られたお言葉を示していると言っていい。主イエスは自分の復活について以前から何度も語っています。復活は主イエスご自身が明らかに語られた約束の出来事なのです。これが「聖書の言葉」です。このことに弟子たちはまだ思い及ばなかった。

 「私は、キリスト教を信じたいんですが、復活が信じられなくて」と言う方がいます。クリスチャンでも「復活が分からない」という方もいます。それに対して「復活を信じられないでは、クリスチャンではない」と言って責める言葉を聞きます。そのような方々に申し上げたい。空虚の墓の前に立つ弟子たちの姿を見ていただきたい。彼らはキリストの弟子です。しかし、空虚の墓の前に立って途方に暮れている。復活をまだ信じられていない。でも、キリストの弟子であることは失われていません。「お前は復活を信じないから、私の弟子ではない」などと、キリストは言われません。

 部分的に不完全な信仰がある。不完全であっても、なおキリストに信頼しようとするならば、それは信仰なのだと言っていい。神の創造、三位一体やキリストの神性と人性について、贖罪の理解、終末の理解など大切な信仰箇条であっても、十分な理解と完全な信仰を持つわけではありません。はじめから私たちは確信に満ちた十分な信仰を持っているのではなく、一歩一歩進むのです。少しずつ信仰の理解が進んでいくのです。

 

 空虚の墓の前で途方に暮れているマグダラのマリアに、主ご自身が近づいてくださり、現れてくださいます。主ご自身がご自分を現してくださるのです。途方に暮れて泣き続けるマリアに、よみがえられた主が現れて「マリアよ」と語りかけ、「なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」と問いかけてくださいます。マリアはこの声を聞いて、生ける主を見て、「ラボニ」(わたしの先生)と、復活の主との出会いを体験するのです。ここで「主は生きておられる」という現実に出会うのです。これが復活の信仰です。マリアや女性たちだけではない。やがて途方に暮れていた男の弟子たちにも次々と復活の主が現れて、彼らは主にお目にかかり、「主は生きておられる」と復活の信仰をしだいにゆっくりと確立させてくださったのです。