2018年3月11日礼拝説教 「見に来てください」

2018年3月11日

聖書=ヨハネ福音書4章27-30節

見に来てください

 

 「主の恵みを証しする」ことは、キリストに出会って、キリストに造り変えられて、なされる信仰の営みです。信仰の営みすべては、伝道を含めて、洗礼の恵みを思い起こすところから始まります。「私もキリストに出会って恵みをいただいた」という恵みの体験を大切にしていきたい。サマリアの女は乾いた砂地が水を吸い取るように、主のお言葉を聞き取り、確かな信仰を持つに至ったのです。信仰を得るのに時間は関係ありません。

 主イエスがサマリアの女性と話をしていた時、弟子たちはどこに行っていたのか。「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」。弟子たちが食べ物を買って帰って来た。そこで見たものは「驚き」でした。主は見知らぬ女性、サマリアの女と親しく語り合っている。ユダヤ教の教師としてなすべき行動とは思えなかった。ラビが公共の場で女性に直接語ることは、律法の教師の品位にもとることと考えられていた。その上、相手はサマリアの女です。弟子たちは目を丸くして驚いてしまった。

 イエスの行われたことを見ると、このようなことはここだけではない。弟子たちは「驚いた」だけですが、イエスの振る舞いに対して激しい拒否反応も起こった。ルカ福音書15章に「徴税人や罪人が皆、話しを聞こうとしてイエスに近寄って来た。するとファリサイ派の人々や律法学者たちは『この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている』と不平を言い出した」と記されている。律法学者たちは驚き、不快感を示した。

 私たち人間は偏見を持って人を見がちです。学問がない、家柄が悪い。変わっている。最近では日本人は外国人に対して偏見を持ちがちです。イエスはそのような偏見によって人を扱うことはしません。キリストは人を偏り見ない方です。むしろ多くの人に卑しめられ、交わりから遠ざけられていた人のところに来て、語り掛け、弟子とされた。サマリアの女もそうです。交わりから除外されていた人たちに福音を伝えられたのです。

 見るべきは「女は水がめをそこに置いたまま町に行っ」たことです。主との出会いが大きな人生の変革をもたらした。彼女が来たのは水を汲むためでした。人目を気にしながらでも水を汲まなければ生活できない。大きな水がめを頭に乗せてやって来た。それに水を汲んで、来た時と同じようにひっそりと帰る筈でした。ところがこの井戸辺で、イエスに出会い、永遠の命に至る水のあること、救いの必要なこと、神を礼拝することを示され、自分と話したお方がまことの救い主であることを知った。このキリストとの出会い、キリストに出会った感動が彼女を突き動かします。

 もう水を汲みに来たことをすっかり忘れ、水がめを放り出して、人目を避けて生きてきたことも忘れて、彼女は人のたくさんいる町の方に走り出した。ここに聖霊の恵みの迫力があります。水がめを放り出すことは価値観の転換を意味しています。関心事が変わってしまったのです。これはサマリアの女だけの特有なことではありません。ペテロたちもそうでした。イエスに出会い、召しを受けると魚を取る網も船も置き去りにして従いました。徴税人マタイも「わたしに従って来なさい」と言われると、収税所を捨てて主イエスに従いました。サウロもそうでした。ラビとしての輝かしい経歴も未来も「塵あくた」のように捨て去ったのです。

 信仰に入った人が仕事を放り出すのではありません。異端の人のように主婦が家事をも放り出して布教活動に励むのではない。大事なことは、何を第1にするか、です。絶対的なものを絶対的として、相対的なものは相対的なものとして判断し生活を整理することです。信仰者は神を礼拝することを第1にして生活の在り方を整理するのです。そして生活の中で主の恵みを証しするのです。仲間に、隣人に、自分の救いを伝えるのです。

 昼の時間は過ぎて、町の中に人が出てきていた。その人々に彼女は大きな声で話し始めた。自分の語ることを聞いてくれるか、どう受け取るだろうかなどは考えなかった。彼女は「さあ、見に来て下さい。わたしが行ったことを全て言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と叫びだした。「わたしが犯してきたふしだらなことを全部知って言い当てたんです。その人はわたしを苦しめるために言ったのではなく、わたしを愛して言ってくれたのです。わたしはその人に罪を告白し、過去を告白しました。わたしはこの人がキリストではないかと思います」。

 彼女はキリストと確信する人に罪を示されて告白し、生まれ変わったことを証言した。彼女は新しい命に生きていることを実感していた。罪を告白して本当にスッキリし、神のみ手に自分がしっかりと受け止められていることを悟ったのです。今まで経験したことのないことです。この町の人で彼女の過去を知っている者たちは彼女を軽蔑し、罵ったでしょう。しかし、この救われた恵みの実感と感動を彼女は率直に語ったのです。町の人たちは、このような恥じ多き女を神の恵みを語る女に変えた事実に驚いた。「メシアかもしれない」と言われた主イエスのもとに、人々が続々とやって来たのです。彼女は最も素朴な、しかし純粋な伝道者の姿なのです。

 

 キリストの恵みに驚き、喜びに溢れて語るところで、周囲の人はその驚きと喜びの秘密を知ろうと集まってきます。教会の中で互いにいがみあい、冷たい言葉のやりとりがなされるようだと、だれもそこに信仰を求めては来ないでしょう。このサマリアの女のように救われた恵みの感動と喜びが語られるところには、人々が次々と集まってくるのです。私たちもまたサマリアの女と同じように救われた恵みを率直に、大胆に、自由に伝えたい。伝道は、私たちを救ってくれたキリストの恵みを感動をもって伝えることです。恵みを語り出すことです。すべての信徒は伝道者です。牧師でなければ伝道できないなんて考えないでください。主イエスは救いの恵みを喜ぶ者を喜びのメッセージの使える伝道者としてくださいます。私たち一人ひとり伝道者として、主の恵みを感動をもって語り伝えてまいりたい。