2018年3月4日礼拝説教 「まことの礼拝をする者」

2018年3月4日

聖書=ヨハネ福音書4章16-26節

まことの礼拝をする者

 

 主イエスはサマリアの女に語ります。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と。しばらく沈黙の時間があった。絞り出すようにして彼女は答えます。「わたしには夫はいません」。最も痛い点に触れられた。女はハッとした。ここからイエスとの対話は一挙に宗教の問題、信仰の問題に飛躍します。イエスの言葉によって彼女が抱えている問題に目が向けられた。彼女は今まで5人も夫を取り替えてきた。今、一緒に住んでいる男も夫と呼べる存在ではない。ここに人目を避けて生活しなければならなかった問題がある。主イエスはこの問題点をズバリと言い当てられた。その人の本当の姿、本当の課題を示すのです。それは痛みを伴います。

 主イエスは、彼女に自分の本当の姿を知ることを求めているのです。都合のよいことだけを求めることは求道ではありません。主は、この女性の心の中にある本当の渇きと本当に必要なことに目覚めさせたのです。自分の罪の姿を悟って心の渇き、霊的な渇きを自覚させたのです。ルカ福音書15章に放蕩息子の物語が記されています。弟息子は財産を全部金に変え、都会に出ていき、放蕩三昧を尽くして遊びます。金が無くなり、飢饉が起こり、食べることにも窮した。そのどん底で弟息子は我に帰って自分の惨めさを悟り、「わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました」と自分の罪を認めるのです。ここから救いが始まったのです。

 彼女が5人の男を取り替えてきたのは美人だったのか、あるいは貧しすぎたのかもしれない。しかし、どんな理由にしろ彼女は神の前から失われて欲望のままの生活を送ってきた。その彼女の心がえぐられるような罪の指摘を体験した。女はイエスの言葉によって魂をえぐられるように罪の事実を指摘されて悔い改めがなされたのです。主イエスはこの女性の返答に対して「あなたは、ありのままを言った」と言われました。自分の罪の姿を包み隠すことなくあるがままを示した。これこそ罪の告白です。自分の罪を隠してとりすましているかぎり、本当に神を知ることは出来ません。この女性は自分が罪人であることを本当に悟ったのです。

 女性は主イエスに言います。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」。渇きをいやす水を求めることから始まった対話は、女のありのままの姿をさらけだすに至り、さらにこの女性に信仰の問題に目覚めさせたのです。この女性は突然、礼拝の場所の問題に話を移しています。「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」。唐突のように思えます。そこで「これは彼女の弁解だ、自分の罪の姿を追及されたための言い逃れの口実だ」と受け止める人もいる。もしそうであれば、主イエスは彼女の言い逃れを許さないでしょう。しかし、主イエスは彼女の問いに真剣に応えています。礼拝の場所についての問いは決して言い逃れの口実ではありません。

 心の渇きの問題は必然的に神を礼拝する問題へと展開していく。罪を示された女は救いを求めざるを得ない。彼女の視線は今、救いを求めて神に向けられている。表面的には礼拝の場所の問題のように見える。しかし、彼女の言葉を別の言葉で言い直すとこうなります。「わたしはどこへ行って救いを求めたらよいのか。わたしの救いはどこからくるのか」となるのです。この女性も旧約の世界の中で生きています。救いは神から来る。問題は、どこに神がおられるのか、です。神のところに行って、放蕩息子が父親に語ったように「わたしはあなたに対して罪を犯しました」と悔い改めるところで赦しがあることを知っていたのです。

 救いを求めての切実な問いなのです。ですから、主イエスの返答は本当に迫力ある言葉です。この女性に対して正面から救いの言葉を語っている。そうだ、よく聞いてくれた。あなたの渇きを癒してくれるのは神の元に帰る時だ。今がその時だ。わたしが来たのはそのためなのだ。そう主イエスは言われているのです。そして、あなたに本当の救いを与えるのは、ゲリジム山での礼拝でもない。エルサレムの神殿礼拝でもない。「霊と真理をもって父を礼拝する」ことだと説き明かされたのです。

 「霊と真理をもって」とは、2つの意味が込められています。1つは、ゲリジム山とかエルサレムという外形的な場所にとらわれないということです。2つは、キリストを通してということです。主イエスは「神は霊である」と言われた。神が霊であるとは、神は目に見えない普遍的ということと共に、神が生きた人格であるということです。自由な人格を持つお方であるということです。神は生きた人格として罪人を愛し、独り子を送って下さった。その独り子によって罪人を救って下さる神の真実、神の真理が表されたのです。霊的な礼拝とは、神の恵みと真理に満ちたキリストに包まれて神を礼拝することです。本当の礼拝が成り立つところはゲリジム山でもエルサレムでもない。イエス・キリストがおられるところです。

 サマリヤの女性は彼女なりに、救い主を待っていた。旧約の世界に生きていた女ですから預言者たちのことは知っています。預言者たちは繰り返し救い主、メシア・キリストが来ることを語った。救い主・キリストさえ来てくれれば、苦しみ悩んでいる恥じ多き生活から救い出してもらえるだろうと思っていた。すると、主イエスによって驚くべき言葉が語り出されました。「それは、あなたと話しているこのわたしである」と。

 

 「わたしがそれだ」。主イエスはここではっきり御自分がメシア、救い主であることを明らかにされたのです。彼女はここで本当に救いを体験したと言っていいのです。彼女は今、自分を愛して自分の罪を赦し、新しく生かして下さるお方に出会ったのです。彼女は主イエスによって捕らえられた。主イエスを通して、神の前に立っているのです。主イエスは今、わたしこそ、あなたを癒し、赦し、包むまことの救い主なのだ、と言われたのです。このお言葉を受け入れることが、まことの神礼拝なのです。