2018年2月25日礼拝説教 「水を飲ませてください」

2018年2月25日

聖書=ヨハネ福音書4章1-15節

水を飲ませてください

 

 この出来事は情景を思い描くことが出来ます。旅に疲れた人が井戸辺で一人の女性に水を飲ませてくれと頼んでいる光景です。珍しくないと思う。しかし、当時の社会では考えられない情景でした。イエスは「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」。3日間の距離ですが、当時のユダヤ人は一度ヨルダン川を渡って遠回りし1週間かけて行き来していた。ユダヤとガリラヤの間にサマリアがあったためです。サマリアに住む人も元はユダヤ人でしたが、異邦人が支配した時代に雑婚が進み、血統の純粋を尊んだユダヤ人は、サマリア人は異邦人だ、汚れた人種だと差別し交際しなかった。

 「サマリアを通らねばならなかった」。イエスは以前からこの女性を知っていたのか。知らない人です。女性もイエスのことは知っていない。けれど、イエスはこの女性との出会いを求めてここに来た。聖書で「ねばならない」とは神の必然を表す言葉です。私たちもこの女性のようにイエスのことなど何も知らない、信仰など考えないで暮らしてきた。自分から教会に出掛けて話を聞いてみようなどとは思わない。イエスはそういう人を訪ねて下さいます。主はこの女性を訪ねるため、あえてこの道を通られた。

 「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである」。そこに一人の女が水を汲みにきた。この時代は集落の中に井戸があり、この井戸水で生活していた。水を汲む時間も決まっていた。朝と夕方です。だれも暑い真昼に水汲みには来ない。この女性はその最も暑い時に水汲みに来た。彼女は町の人から疎外されていた。この後のイエスとの会話から分かるが何回も結婚、離婚を繰り返し、幸せな生活をしている人ではない。人の出歩かない時に人目を避けて水汲みをしなければならない生活をしていた。イエスはこのような人を訪ねて下さるのです。

 イエスはこの女性に「水を飲ませて下さい」と声をかけた。イエスがものを頼んたことが対話のきっかけになっている。心を閉ざしている女に男から挨拶や問い掛けがなされても無視したでしょう。しかし、主はものを頼んだ。ものを頼むとは下手に出ることです。彼女は「自分にものを頼む人がいる」、「私を必要としている人がいる」、そう感じたのではないか。イエスの言葉は深い意味で人の心を引き出すものでした。

 「水を飲ませて下さい」。この頼みは、彼女には珍しいことでした。人からうとんじられ、疎外されて生きてきた。その自分にものを頼む人がいる。彼女の驚きはそれだけではない。相手はユダヤ人だ。「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言う。対話が始まっていく。あなたはユダヤ人、私はサマリア人、つきあいはない。どうしてものを頼むのか。主イエスは答えます。「もし、あなたが神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。

 ヨハネ福音書では日常的な事柄をきっかけに、そこから魂の深い問題、信仰の真理の問題に展開していきます。人間の体にとって最も大切な水がきっかけになります。水がなければ生きていけない。その水のために、この女も暑い日中、ここに来た。水を求めての問答が始まるが、イエスは今度は、ただの水ではなく「生きた水」のことを語ります。しかし、彼女にはまだ「生きた水」が分かりません。彼女は言います。「あなたは汲むものをお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」と。「生きた水」を与えると大きなことを言いながら、汲むもの1つ持たない男に対して皮肉を言ってからかっている、男を見下しているのです。

 主イエスは言われます。「この水を飲む者はだれでもまた乾く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して乾かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と。ここで、この女は感動体験をしたと言える。馬鹿にしないで真剣に応えてくれた。旧約では「生きた水」とは、溜まり水ではなく流れたり湧き出したりする水を意味しています。しかし、彼女はここで「生きた水」とは流れる水のことではなく「永遠の命に至る水」であることが分かりかけてきました。

 女は言います。「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」。この女の言葉を、どのように理解したらよいか。多くの人は、この求めはまだこの世の水にとらわれた求めだ、水を汲みに来る煩わしさを解消してくれるなら幸いだ、そういうものを下さい、という意味だと理解します。別の聖書学者は、この求めは悩みの中にある人の魂の祈りであり、永遠の命を求める祈りの言葉であると理解します。この時の彼女の気持ちはまだ明確ではない。彼女の心の中には様々な思いが入り組んでいる。現実の水のことも頭から離れなかった。しかし同時に現実の水以上の渇くことのない永遠の水への願望もある。

 ライルという注解者はこう記しています。「我々の大切な目標は、罪人の目をイエスに向けさせ、『わたしにその水を下さい』と求めるようにしむけることである。人々が正しい動機と心をもって求めるようになるまでは、何も祈り求めてはならないと言うならば、何もしてあげられないことになる。人が神に向かってもらす最初の一声の動機を厳密に分析するのは、幼児の叫びの文章構造を批評するのと同様、愚かであろう。もしイエスに『与えて下さい』と求めるのならば、それでよしとすべきでしょう」と。

 

 ここには、人が主イエスを求める求道のプロセスが描かれているのです。汲むものを持たないイエスに対して「わたしに水を下さい」と言わせたのです。イエスは汲むものも持たないのですから、少なくともこの井戸水のことでないことは明らかです。求めもしなかった者の心の中に、求める心を呼び起こして下さいます。「主よ、わたしにその水をください」と。