2018年2月11日礼拝説教 「あなたの神、主を愛しなさい」

2018年2月11日

聖書=申命記6章4-15節

あなたの神、主を愛しなさい

 

 聖書の基本的な主張は唯一神信仰です。旧約の歴史は唯一神信仰確立のための闘いの歴史でした。唯一神信仰は十戒に、この申命記にも明示されている。しかし、イスラエルの民は唯一神を信じて生きたわけではない。唯一神を信じることが命じられながら、バールやアシュトレトという多神教崇拝にそれていく歴史でした。イスラエルで唯一神・ヤハウェ信仰が確立したのは、バビロン捕囚という大きな出来事を体験してからのことです。

 新約は、この唯一神信仰確立の上に成立している。唯一神信仰が成立し、その上に三位一体の信仰、キリストにおける贖罪の信仰が成立する。教会員は旧約聖書をしっかり読んでいただきたい。キリスト者は新約聖書を読んで、そこから信仰の導きを得ます。キリスト教はユダヤ教ではない。新約聖書を重んじ、新約のメッセージに従って生きる。しかし、新約は旧約を土台にしている。家という構造物を支えているのは人目につかない土台です。日本のキリスト教はひ弱だと言われます。それは旧約のメッセージをしっかり受け止めていないところから来ていると言ってもいい。

 申命記6章4-5節「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。「シェマー」と呼ばれて旧約聖書の心臓部のようなところです。「シェマー」とは「聞け」というヘブライ語で、ユダヤ人たちが最も大切にしている信仰の言葉です。主イエスも、旧約の教えの中でこの教えが最も大切であると教えました。律法の専門家がイエスを試そうとして尋ねます。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。すると主イエスは応えられました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、私たちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』」と。

 ユダヤの人たちは小さい時から毎日この言葉を唱えていた。子どもに一番最初に教えた。聖書的信仰の基本がここにあるのです。唯一の神を信じて、その神のみを礼拝し、他の神々を拝んではならないことです。この基本的な信仰を徹底的に教え込んだ。「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」。「あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」。ユダヤ人の家の玄関には「メッツザー」と言う円筒形の筒が取り付けられています。中には申命記6:4-5を記した紙が入っています。家に入る時にはそれに手を触れて、その指にキスしてから入るという習慣になっています。

 この唯一神信仰を支えているのは神による救済の事実です。「あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れてはならない」と命じられています。ここにイスラエルの民が唯一の神を愛し、信じ、従うべき根拠が記されているのです。主なる神ヤハウェは救済の神です。唯一神信仰を支えるのは神の救済の御業なのです。エジプトで奴隷状態で神を礼拝する自由を持たなかった。しかし、神はそのイスラエルの民を愛して、エジプトから救い出して契約を結び、礼拝の自由を与え、神の民としてくださった。この解放と救済の神、主・ヤハウェを畏れ、仕えなさいと、命じているのです。神の選びの愛に基づく救いの御業・解放のみ業が土台、根拠になって、贖われた神の民の信仰の服従があるのです。

 これはキリスト教信仰の構造もまったく同じです。主なる神が、まず私たち罪人を愛してくださった。ここから始まります。私たちが神を愛したのではない。神が私たちを愛して、私たちの救いを計画してくださり、御子イエス・キリストをお与えくださいました。この御子イエス・キリストが私たちの罪を担い、十字架で贖いをしてくださいました。ここに私たち罪人の罪からの解放、罪の赦しがあるのです。この神の罪人に対する愛、主イエス・キリストの十字架の贖いという救いの恵みを根拠にして、私たちは神とキリストを信じ、神への信仰の服従に生きるのです。

 最後にお話しすべきことは、このような私たちを救う唯一の神が人格的な愛の神であるということです。申命記6:15「あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である」と記されています。これは神がイスラエルを愛し、救い、恵みを与えることにおいて熱心であるということです。この「熱情」と訳された言葉は口語訳では「ねたむ」と訳されていた。「ねたむ」という言葉は日本語ではマイナスイメージの言葉です。

 この「ねたみ」という語は問題のある誤解されやすい訳語だと言われてきた。そのため新共同訳では「熱情」と訳し替えてしまった。しかし、「熱情」という言葉は極めて平板な訳し方です。「ねたむ」という言葉はアンビバレントな感情の言葉なのです。演歌に「憎い」、「恋しい」という言葉が出てきます。そのような感情表現なのです。極めて複雑な愛情の関係を表現する言葉なのです。人格的な愛の係わり、愛の交わりの中で「ねたむような愛」が現れるのです。一夫一婦の関係において現れるのが「ねたみ・ねたむ」です。複雑な激しい愛情の表現です。単なる熱情ではない。

 主なる神・ヤハウェはイスラエルを選んで愛し、出エジプトさせて契約を結び、ご自分の民となさいました。丁度、結婚した関係と言っていい。神はイスラエルの神となり、イスラエルは神の民となった。この契約の関係、人格的な愛の交わりの関係の中で、神はイスラエルに対して、イスラエルを愛して救い出した神のみを愛して生きるのだと命じられたのです。これが申命記6:4の「シェマー」の言葉なのです。

 神がまことに人格的なお方であり、その人格をもって激しく民を愛し、そして救われるのです。このような激しい愛の故に「贖い」があるのです。キリストの十字架において実現した贖いの出来事は、激しく燃えるような神の愛から出てきたのです。人が罪と滅びの中で苦しみ歩んでいる。滅びるままにしておけない。神の激しい熱愛が私たちの救いの根拠なのです。