2018年2月4日礼拝説教 「世を愛される神」

2018年2月4日

聖書=ヨハネ福音書3章16-17節

世を愛される神

 

 この箇所は「スモール・バイブル」「福音の要約」と言われています。神の愛がどんなに深く、大きいか、心の中にずしりと響いてきます。

 主イエスは言われました。「神は……世を愛された」。ここに喜びがある。キリスト教は喜びをもたらす信仰です。私たちは時に悲しいことや辛いことも体験する。けれどキリスト教は苦難を通しての喜びをもたらす信仰です。主イエスは例え話を語られた。100匹の羊を持っていた人が1匹いなくなった。山や谷を駆け回って、失われた羊を捜し出した時、羊飼いは大喜びした。隣近所の人を呼び集めて喜びの祝いをした。けれど、喜びは羊飼いだけでなく見つけられて羊飼いの懐に抱かれた羊も喜んだ。命が失われる危険から助けられて羊飼いの懐に戻り、喜ぶのは失われた羊です。

  この喜びをもたらすのが神の愛です。神が世を愛された。ここに語られているのは、この世に対する神の愛です。今日、「愛」という言葉は手軽に用いられ手垢にまみれています。しかし、ここで語られている「愛」は極めて重い言葉です。ギリシャ語で「愛」を表す言葉は3つある。1つは「フィレオー」で「友愛」と訳されます。2つは「エロス」で自己愛、性愛とも訳される。欠乏を背景にしている言葉で、自分の中に激しい飢餓を感じ、求め続ける愛、奪い尽くす愛です。この世が多く語る愛です。

 3つが「アガペー」です。奪い尽くす愛に対して、犠牲の愛、与える愛です。「神が世を愛された」と語る愛は、このアガペーです。アガペーの愛は身を切るような具体性をもっています。本物の愛は何等かの犠牲を伴います。「その独り子をお与えになったほどに」という言葉に、この愛の真実が語られている。神御自身が身を切るような愛と言っていいでしょう。

 「与える」と訳された言葉は「引き渡す」という意味を持っています。神の愛は、神にとって最も大切な独り子を死に引き渡すことによって示されました。「独り子」を直訳すると「み子を、ただ一人の方」となります。人は一番大事なものは最後まで手放したくない。大切なものは最後まで保っていつくしむ、いとおしむ。神も同じではないでしょうか。神は最も大切にいとおしんでこられた神の独り子を死に渡されたのです。

  主イエスは、ぶどう園を農夫に貸し与えて旅に出た人の例え話をしました。ぶどう園の施設全部を作った主人は農夫たちに貸して旅に出た。やがて収穫の分け前を貰うため、主人はしもべを繰り返し遣わしますが、農夫たちはしもべたちを次々に殺してしまった。そこで主人は最後の最後に「わたしの息子なら敬ってくれるだろう」と言って独り息子を遣わします。

 この主人にとって息子は特別な存在でした。ヨハネ福音書はこの息子を、「父のふところにいる独り子である神」と記しています。父なる神が最も愛するもの、それは父のふところの中にいる独り子であるお方です。三位一体の神の第二人格、神御自身です。この独り子を「引き渡す」などということはあり得ないことです。神も独り子であるお方を大切にして、最後までご自分の手元に残して置きたかった。その独り子を犠牲として与えたのです。この神の身を切るような切ない思いが、「み子を、ただ一人の方を」と言う言葉の中に表されている。独り子なるお方はイエス・キリストです。イエス御自身が、この神の愛を実践なさった。私たちの罪の身代わりとして十字架にかかり、罪の償いとして死に渡されたのです。

 この神の愛の対象が「世」です。罪人の世界です。アダムが神の言葉に背いて禁断の木の実を取って食べて、神から逃れ、神に身を隠して生きている世界です。私たちが毎日、テレビを見て、新聞を見て、溜息をつきたくなる世界です。子が親を殺し、親が子を殺す。憎しみと偽りが満ちている世界です。決して人ごとではない。私たちの心の中も悪しき思いが渦巻いている。神に背を向けて歩く人間の世界は大きな悪に満ちた世界です。しかし、神はこの巨大な悪に満ちた世を愛して下さった。神の愛の対象は互いに憎しみ合い、神に背を向けて歩いているこの世の全ての人なのです。この世の一人として生きている私たちを、神は愛して下さっている。どんな罪深い人でも、悪人でも、なお神の愛の対象なのです。

 神の愛の目ざすものは何なのか。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」ことです。「滅び」と訳されている言葉は「我を失う」とも訳せる言葉です。ルカ福音書15章に、家出した弟息子の物語が記されています。弟息子は遺産分けをしてもらい、全部金に換えて都会に出ていき、その財産を湯水のように使って放蕩にふけった。やがて全てを無くして豚の食べる豆で腹を満たしたいと願うほどになる。どん底の中で「彼は我に返った」。父のところを去って財産を湯水のように使っていた時代が「我を失って」いた状態で、実は「滅びの中にいた」。父から離れて自由に生きていたと思っていたが、これこそ神の怒りの下にあるこの世の姿なのです。

 生きる意味が見失われ、ただ目先のために走り回っている。本当に何をしたいのかも分からなくなっている。目先の富と快楽を求める姿が滅びの姿なのです。「我を失って生きている」のです。神が独り子をお与えになった目的は、そのような滅びの中にある者が「永遠の命を得るため」です。「永遠の命」とは肉の命が長続きすることではなく、神による新しいいのちのことです。死んでからいただく命ではなく、今ここから、神に結ばれて神と共に生きる命です。家出した弟息子は、我に返って父のところに帰ります。父に赦されて神の子としていただき、神のものとして生きる。

 

 この永遠の命を得るただ1つの条件はキリストを信じる信仰です。「信じる者はだれでも」「信じる者は全て」滅びないで永遠の命を得ると、主イエスは語られます。年をとったニコデモはイエスのもとを、何をしたら永遠の命を得るかという問いを携えて訪ねて来た。それに対して、主イエスはここで神の愛を語るのです。神の愛によって与えられたキリストを信じることこそ、永遠の命を得るただ1つの道であると語られたのです。