2018年1月28日礼拝説教 「新たに生まれなければ」

2018年1月28日

聖書=ヨハネ福音書3章1-8節

新たに生まれなければ

 

 ニコデモという人が登場します。彼はファリサイ派に属し、サンヘドリン議会の議員です。イエスは過越祭の1週間エルサレムにとどまり多くのしるし・奇跡を行った。サンヘドリン議会の議員であるニコデモも見る機会があった。イエスの行うしるしを見て、驚き、ひきつけられた人たちの代表です。「ある夜、イエスのもとに来て言った」。ニコデモがイエスを訪ねた時、人目を避ける気持ちがあった。イエスを訪問したことが人に知られたら、どんなことを言われるか。そこで人目を避けて夜、来たのです。

 ニコデモはイエスに会うと、こう切り出した。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」。イエスの行うしるしを見て驚いた人の思いが語られている。イエスを「ラビ」と呼ぶ。イエスを神の子とかメシアと言うのではない。神からの教師に過ぎません。信者ではない。イエスに興味を持った求道者です。

 ニコデモの語りかけにとらわれず、主イエスは求道者としてのニコデモに応えます。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。「はっきり言っておく」は、アーメンです。ニコデモは腰が引けていますが、主イエスはこれから語ることは大事なことだと言われた。「新たに生まれる」とは「上から」と訳せる言葉です。しかし、この言葉を聞いてニコデモは「もう一度、生まれ直す」と誤解した。もう一度、母の胎に入り直して生まれ直すことが出来るかと疑問に思った。

 イエスが語られたのは上から生まれることです。もう一度、母の胎に戻って生まれ直しても、肉から生まれるものは肉です。神の国に入ることは出来ません。主イエスはさらに語ります。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。…霊から生まれる者は霊である」。主が語ることは肉体的な生まれ直しではない。上から、つまり神によって、神の霊によって生まれることです。私たちは言います。「生まれ変わった気持ちになって頑張ります。生き直します」と。そう思って教会に来る人もいるかもしれない。しかし、主が語ることは、そのような人生のやり直しではない。全く別の、神によって生まれる霊的な誕生なのです。

 「上から、神によって生まれる」とは、道徳的な努力や修行などで変わることとは違う。生まれる、誕生という言葉で表される全く新しいいのちを獲得することです。人は例外なしに、罪によって堕落した状態で生まれて来る。思うこと、語ること、行うこと、すべてが神から離れ、神に従うことが出来ない。この罪によって霊的に死んでいる人間が救われるためには、新しいいのちを獲得する以外ない。主イエスは、上からの、神による霊的な誕生が必要なのだと言われた。霊的ないのちの獲得なのです。新しいいのちに生まれる以外に神の国に生きる道はないと、生まれるという言葉で「霊的ないのちの獲得」の事柄の真実を伝えようとしているのです。

 新しく生まれることは自分自身で行うことは出来ません。肉体の誕生でも自分で生まれてくることは出来ない。赤ちゃんが自分で志願して生まれるものではない。親が生んでくれる。全くの受け身です。霊的な新生も同じことです。主は言われます。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国を見ることは出来ない」。人間の努力による誕生ではない。「水と霊による」誕生、つまり、神が人を救いの中に生み出して下さるのです。

 「水と霊」とは何か。「水」は洗礼との係わりで語られています。ただ洗礼という形式によって新しく生まれるわけではない。洗礼は神の霊による誕生のしるしです。大事なことは、神の霊による霊的ないのちの誕生です。神の霊による霊的いのちの誕生は、同時に水の洗礼と1つに結ばれているのです。主イエスはこの霊的な誕生を「風」に例えています。ヘブライ語「ルアーファ」、ギリシャ語「プニューマ」、いずれも霊と風、同じ意味を持つ言葉でした。イエスは、神の霊による誕生の話をしながら、風にこと寄せて霊による誕生を語っていきます。「風は思いのままに吹く」と、主は言われた。このお言葉は聖霊なる神の主権性を言い表したものです。

 人を救うことは神の主権です。神の聖霊は自由にある人を選んで想いのままに救われます。人間の側には理由はありません。能力でも資質でもない。神はあえて無きに等しい者を愛して選ばれます。神は聖霊による新生を想いのままに起こされるのです。主はこう言われます。「あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれた者も皆その通りである」。神の霊が、いつ、どこから、どのように、人の心に入って、人を生まれ変わらせるかは、人には全く分からない。神の霊による新生、新しく生まれることは、神の選びによる恵みの神秘なのです。神の霊は、自分で神を信じたと思うよりもはるか以前に、人の心の中に入り、造り変えて、キリストを信じる信仰へと導いていて下さるのです。

 では、神の霊の働き、聖霊の動きは全く分からないのか。イエスは「あなたはその音を聞く」と言われています。風の動く音を聞く、風が動くと寒いと感じる、木の葉が舞う、旗が揺れる。風の動きには必ず結果が現れる。聖霊が働くところには、信仰が生み出されるのです。求道中の方に尋ねられます。「私は信じていると言えば言えるのですが、これが本当の信仰かというと分からない」と。だれでも、一度はこのようなところを辿るのです。私はいつも申し上げています。「お祈りをして下さい。主イエスの名によって父よ、と祈る。どんなに拙い言葉であっても、天の父よ、と祈ることが出来るなら、あなたは信仰を持っているのですよ」と。

 

 木の葉が舞い、窓がガタガタと音をたてると、風が動いていることを悟ります。私たちもこのような神の霊の働きの音を聞くのです。自分自身はっきりと知ることが出来る。私たちが「天にいます父なる神よ」と素直に祈ることが出来るならば、その人は神の霊によって新しいいのちに生み出された新しい人なのです。新しいいのちの脈動がここにあるのです。

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コメント: 2
  • #1

    救道者 (日曜日, 24 2月 2019 21:42)

    「だれでも水と霊とによって生まれなければ、」ということの説明が、漠然としたことであり、良く分かりません。
    先生は、新しく生まれて神の国をいつ、どのように見ることができるようになったのですか。

  • #2

    牧師 (日曜日, 24 2月 2019 22:44)

    前任の先生の説教ですが、現牧師より回答いたします。

    これはわたしの場合なのですが、「いつ」という質問に答えるならば、「イエスがわたしの救い主である」と心から信じたときです。
    このような思いの中で祈り、聖書の御言葉に聞いていますと、
    「神の働きが、わたし自身に対しても自分の周りの様々な事柄においても及んでいる」を思わざるを得ない出来事が沢山あるのです。
    神の国とは神の御支配のことです。そして、神の働きをとおして神の御支配がわたし自身にもわたしのまわりにも起こっているわけですので、
    そのことをとおして神の国(神の御支配)がそこに実現しているということが見えるわけです。
    一つ例を挙げるとすれば、神様の御言葉に従って教会に集まっている兄弟姉妹の姿をとおして、わたしは毎日曜日ごとに神の国を見ています。

    以上の言葉で伝わるかは分かりませんが、あなたが「イエスがわたしの救い主である」と信じることができるようお祈りしていますね。