2018年1月7日
聖書=ヨハネ福音書13章31-35節
互いに愛し合いなさい
この箇所は今年2018年の浜松教会の標語聖句です。新しい若い牧者を迎えて伝道に力を注ぐため、私たちの群れが「互いに愛し合う共同体」になることです。この箇所は、主イエスが御自分の十字架の死が近いことを知って残される弟子たちへの告別説教です。
主イエスは「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」と言われた。最後の晩餐が終わったばかりです。本当にいましばらくです。最後の晩餐の席を立ってゲッセマネの園に行けば、ユダに導かれた捕り手が待ちかまえている。その後は十字架の死への一筋道です。弟子たちはついてくることは出来ない。ついて行くどころか、逃げ去ってしまう。
問題はそれからです。主イエスは弟子たちが逃げ去ってしまうことを十分に分かっています。しかし、主イエスはその後、その先をしっかりと見ておられます。逃げ去り、散った弟子たちが、再び結集される。集められる。主イエスの弟子たちが再び信仰を取り戻し、キリストの弟子として立ち直る時が来る。散り散りになった弟子たちが再び結合される時を思い見て、主イエスはここで遺言しておられるのです。これから弟子たちがキリストの弟子として生きていくための最も重要なことなのです。
主イエスは語られました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。この言葉は、新しい神の民、キリスト教会結集の原理です。「新しい掟」の新しいとは、年代的な新しさではありません。モーセ五書の律法に1つ加えることでもありません。
ここで「掟」と訳された言葉は「ノモス」ではありません。「エントレーン」です。「エントレーン」は冷たい言葉ではない。指図、委託、定めを意味します。車を走らせる時に、この道を走りなさい、この道は安全に着きますよ、この道が最善ですよ、と指示する言葉です。あるいは電車が走るのはこの線路の上を走るのですよと言う勧めの言葉です。目的地にきちんと安全に着くことの出来る道筋を指し示すのがエントレーンです。
「あなたがたに」と、主は言われました。キリスト者は独りで生きるのではない。逃げ散った弟子たちが再び集められ一つの群れを形づくります。キリスト教会と呼ばれる群れ、共同体を造るのです。その共同体の中で、一人ひとりが、私はこちらに行く、俺はこっちだ、と自己主張しだしたらどうなるか。共同体にはならない。たちまち混乱してしまう。そのため、主イエスはこの方向で走りなさい、と道を定められた。その最も基本的な道筋が「あなたがたも互いに愛し合いなさい」です。これがキリストの群れの形成原理です。これは旧約との対比で語られている。旧約の神の民はモーセによって「十戒」という律法を与えられ、この律法が群れの形成原理となりました。この律法に従って群れを造れと命じられた。
それに対して今、主イエスは「あなたがたに新しい掟を与える」と言われました。互いに愛し合うことを群れの形成の原理としなさい、と言われた。勿論、旧約にも愛の勧めはたくさんあります。レビ記19章18節には「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と記されている。愛し合うことは、旧約聖書の命じるところです。決して目新しいことではない。どういう意味で「新しい」と言われるか。教会の頭であるお方自身が、愛するとはこうするうことだと模範を示してくださったのです。
主イエスは「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語られる直前に、弟子たちの泥まみれの足を洗われました。互いに愛し合うことの指示は、主イエスが弟子たちの足を洗った出来事と深く結びついているのです。主イエスが弟子たちの足を洗って言われた。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と。互いに愛し合うとは、決して抽象的なことではありません。このようにすることだと、身をもって模範を示されたのです。
ここに「新しい」と語られた意味があります。旧約のイスラエルの人たちも愛の戒めを持っていました。十戒自体が基本的には「愛の戒め」なのです。にもかかわらず、彼らは互いに愛し合う共同体を形づくることはありませんでした。愛の戒めを持ちながらも、実際には互いに裁きあうファリサイ主義になってしまったのです。
主イエスが弟子たちの足を洗ったことは、十字架の出来事をあらかじめ示すことでした。主イエスが私たちを愛して、私たちの罪のために自らを贖いの犠牲となってくださいました。教会は、このキリストの十字架の贖いによって集められた共同体なのです。主イエスの十字架の贖いによって、神から愛されていることを知った人たち、罪が赦されていることを知った人たちが、招かれ、集い、形づくるのが教会なのです。この共同体はキリストの贖いが根拠になっているのです。キリストの贖いの愛に活かされた人たちが互いに愛し合い、支え合い、助け合うのです。
キリスト教会形成の原理は、神の愛、キリストの贖いの愛なのです。これを核にして、「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るようになる」。教会は、キリストの愛によって贖われた群れ、キリストを通して神の愛を知った者たちの群れなのです。そのゆえに、「互いに愛し合う」ことが私たちの群れの歩む道筋なのだということです。教会はそれ以外の道を歩こうとしても歩けないのです。主イエス御自身が、教会をそのような群れとして買い取られたからです。
礼拝の大切さはここにあります。主イエスの御許で、繰り返し、隣人を愛することの出来ない自分の罪を悔い改めて、主イエスの十字架の愛に立ち戻るのです。主の日の礼拝はそのような場なのです。悔い改め、赦しを求め、互いに愛することの出来るように祈り求める群れなのです。