2017年12月10日礼拝説教 「目を覚ましていなさい」

2017年12月10日

聖書=Ⅰペトロの手紙5章8-11節

目を覚ましていなさい

 

 今朝は「悪魔」のお話から始めます。皆さまは「悪魔」について、どんな理解を持っていますか。ある人は「最近、悪魔が教会から消えてしまった。それはいなくなったのではなく、誰も見ようとしなくなったのだ」と言います。悪魔は巧妙に姿を隠してしまった。代わって心理学、心霊学、マインドコントロールという言い方が登場した。しかし、悪魔の存在を見据えて行かねばならない。聖書は悪魔の存在と働きを雄弁に物語っている。

 「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」。ペトロは手紙の最後で悪魔への注意を喚起している。「かわいい悪魔」、「小悪魔的」という表現があるが、悪魔は決してそんな可愛いものではない。私たち信仰者の敵です。

 悪魔は目に見えませんが存在します。悪魔の目的は神の救いを破壊することで、私たちをキリストから引き離し、救いを奪い、滅びに追いやる。悪魔が強力に働く所は教会です。悪魔は教会の外にではなく、教会の中に居て教会員を食い尽くす。新しい受洗者を誘惑し古くからの信徒にも誘惑の甘い声を囁く。最後の晩餐の時です。主イエスは「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(ルカ福音書22:31-32)と言われ、ペトロはその夜、3度も主を知らないと言ってしまった。ペトロは主イエスのお言葉通りに悪魔に振るわれた。悪魔は教会の心臓部をふるいにかけます。

 ペトロはこの悪魔の攻撃に対して、3つのことを教えています。1つは「身を慎んで」です。「身を慎む」とは自分を抑える生活です。禁欲ではありません。生活のすべてを神との関係において処理することです。祈りの中でと言っていい。静かに神に心を止めることです。あれこれのことに動かされずに、神に心を向けて動かされないことです。

 「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」。思い煩いと誘惑とは深く結びついています。神と富とに思い煩う。二つの方向に心が揺れ分裂する。賢そうな道に思い悩む。これまさに悪魔の誘惑です。思い悩む時、心を神に向けて動かないことです。身を慎むとは神に心を向けることです。そのためには礼拝をしっかり守ることです。礼拝を守ることに破れが出ると、神に心を向けることにも破れます。悪魔との戦いは、どうしたら悪魔に従わないかではなく、どのようにして神に心を向けるかなのです。忠実に礼拝を守ることが神に心を向けることであり、身を慎むことなのです。

 第2は「目を覚ましていなさい」です。ペトロはゲッセマネの園で眠りに落ちてしまった自分の不甲斐ない姿を思い起こしていた。自分の弱さとを知る者として「目を覚ましていなさい」と勧めた。一日24時間、いつも緊張していなさい、ではありません。目を覚ますとは、日常の生活に埋没しないで祈ることです。毎日、聖書を読んで祈ってください。聖書の通読、新約・旧約を全部、繰り返し読んでいただきたい。聖書の読み方には特別な方法はありません。基本は「大意を掴むこと」です。小・中学校の国語の時間で大意を掴む方法は教わっている。大意を掴んで、その後、自分なりに瞑想してみてください。聖書を読むと共に祈ります。聖書通読と祈りを捧げて下さい。それこそ悪魔に対する最も強い抵抗なのです。

 第3は「信仰にしっかり踏みとどまる」ことです。信仰者は神の恵みの中に立ち続けるのです。「踏みとどまる」とは「堅く立つ」です。教理の正しさを保つということも含まれてはいますが、むしろ、ここでの「信仰に踏みとどまる」とは、神に対する素朴な信頼です。神の約束に対する全面的な信頼です。ある人は具体的には「自分の十字架を取る」ことだと言います。神に信頼するとは、自分の十字架を取って神に従って歩むことです。

 ペトロは「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです」と記します。信仰の戦いは孤独ではありません。すべてのキリスト者が同じ戦いをしているのです。すべての信仰者が皆、同じ苦しみを担っているのです。そして、信仰の戦いが孤独ではないとは、神が共に闘っていてくださるということです。神が私たちの味方となって、共に闘って下さるのです。ペトロは記します。「あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。

 神は、どのようにして私たちを助けるのか。神の助けが、4つ明記されています。「完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」。「完全な者とし」は、口語訳は「いやし」と訳しました。元の言葉は「繕う」と訳すことの出来る言葉です。網の破れを修繕するという意味です。悪魔との戦いで傷ついた私たちの傷跡を繕い、包み、回復します。「強める」とは、岩のように堅いものとすることです。困難の中でも強くされるのです。「揺るぐことがない」と言われます。私たちの救いが不動だということです。基を据えるという言葉です。私たちを揺り動かない土台の上に置いてくださるのです。キリストこそ土台です。この土台にしっかり結んで揺り動くことのないようにして下さるのです。ここに記されていることは、救いの永遠保持の恵みです。聖徒堅忍の恵みです。

 

 私たちの頼みはイエス・キリストです。キリストにしっかり結ばれて生きることです。キリストが一緒におられるのであれば、悪魔の誘惑も迫害も恐れる必要はない。主イエスはペトロに「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」と言われた。この主イエスのお言葉はペトロ一人に語られたのではなく、私たち一人ひとりに対して語っておられるのです。大祭司である主が私たちのために祈っていて下さる。これこそ、私たちの根源的な力です。