2017年12月3日礼拝説教 「互いに謙遜を身につけなさい」

2017年12月3日

聖書=Ⅰペトロの手紙5章5-7節

互いに謙遜を身につけなさい

 

 迫害や苦難の中にある教会を治めるとは、危機だ、危機だと言って走り回るのではなく、落ち着いて純粋な神の言葉をもって群れを養い、謙遜に仕えていくことです。普段と少しも変わらない。危機の時こそ、教会は特別なことをするのではなく、普段と同じ信仰の営みをするのです。それは純粋な御言葉の糧によって養われ、御言葉によって生かされている群れは、どのような試練、迫害によっても決して倒されないからです。

 ペトロは次ぎに教会、神の羊の群れ全体に対して御言葉への従順、服従を教えるのです。「同じように、若い人たち、長老に従いなさい」と命じます。教会が信仰の戦いをしていくためには、長老たちが御言葉によって群れを養い治めることが最も大切です。同時に、神の羊の群れである教会は長老たちの御言葉の教えと導きに従うことがなければならないのです。リーダーシップに対してフォーロアーシップ、従う心が必要なのです。

 「若い人たち」とは、青年たちだけに向けられた言葉ではありません。この言葉は、年寄りである長老との対比で言われている。長老以外の教会員をすべて「若い人たち」という言い方で括っているのです。群れの一人ひとりに「従いなさい」と勧めている。長老たちが御言葉に従って群れを教え導いている限り、群れの一人一人が従わないことは御言葉に対する不従順で教会の営みにとって致命傷です。「従いなさい」とは、指導する長老たち、牧師や教会役員に従うことですが、基本はみ言葉への服従です。

 詩編23編に、羊飼いに従う羊の群れの姿が描かれている。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」。教会は羊飼いの吹く角笛に導かれる羊の群れです。それがキリスト教会です。神の御言葉に従わないことは教会を崩していくことです。長老たちは御言葉をもって群れを養い治めます。同時に、群れはその御言葉の糧を喜んで受け、その御言葉の支配に服していくことです。この二つが揃って、教会は世の試練や迫害に強く抵抗して立つことが出来るのです。

 そこで必要になるのが、「謙遜」です。「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と勧めています。「皆互いに」です。長老たちが謙遜になって仕えます。指導者であることは模範を示すことです。権威を振り回すのではなく謙遜に仕える模範を示すのです。しかし、長老たちだけが謙遜に仕えるだけではない。「同じように」「皆互いに」です。教会員たちも謙遜になることが求められているのです。パウロはフィリピ書2章3節で「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れたものと考えなさい」と勧めてる。この「相手を自分よりも優れたものと考えること」が謙遜なのです。

 どうして謙遜が勧められるのか。御言葉を聴くためです。御言葉を正しく聴くためには、どうしても謙遜が求められます。立派な能力があって誰からも尊敬される長老もいるかもしれません。しかし、そのような優れた長老がすべてではない。牧師も例外ではありません。牧師も欠け多き存在です。私が神学校を卒業する時、卒業生一同、岡田稔先生から言われました。「教会に赴任して、牧師がなんでも一番だとうぬぼれてはならない。知恵や、いろいろな能力、人格的な力、さらには信仰でさえも信徒の方がはるかに優れている場合がある」と。牧師も長老も多くの欠点を持ちます。どんなに優れた牧師でも完璧な人などはいない。牧師や長老が能力や才能で胸を張って教会を指導することなど出来ないのはペトロと同じです。

 神は欠け多く才能に乏しい牧師や長老を用いて御言葉を語らせ、その御言葉によって群れを導くことを良しとされます。神は決して天使を用いられるのではなく、人の奉仕を用いられます。同じ信徒の仲間を用いて御言葉を語らせ、教会を治めさせられるのです。若い牧師は信仰の経験にも乏しい。能力も会員の方があるかもしれない。見下したくなる。馬鹿にしたくなる。しかし、そこで見下したのでは神の言葉を聞くことは出来ません。神の御言葉を聴くためには、謙遜にならなければならないのです。

 ペトロは『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』と箴言を引用して、「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」と勧めているのです。

 「謙遜を身に着ける」の「身に着ける」は、結ぶ・身にまとうと言う意味がある。前掛けを結ぶ、前掛けを身に着けることです。ここで、ペトロは最後の晩餐の席での主イエスのお姿を思い起こしていたのではないか。最後の晩餐の時、主イエスは上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとい、たらいに水を満たして、かがんで弟子たちの足を洗われた。ペトロは「わたしの足は決して洗わないで下さい」と固辞した。主イエスはそのペトロの足も洗われて言われた。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ福音書13章1-20節)。私たちも皆、謙遜を身に着けて、互いに仕え合うことが求められている。苦難と試練の中で、教会が一致して御言葉に活かされていくために「神の力強い御手の下で自分を低くする」ことです。

 

 最後に、ペトロは「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と語ります。苦難の中にある教会にとって大切なことは信頼することです。この信頼は、神への信頼です。試練や苦しみが降りかかってくると、私たちは慌てふためき、思い煩い、右往左往します。しかし、試練や苦しみが来るのは、決して偶然や運命からではない。神の摂理の御手の中にあるのです。今の時の苦しみも、なお神のお取り計らいの中にあるのです。と言うことは、神はこの試練や苦しみから私たちを救い出すことの出来る力を持っておられるのです。神が良しとされる時に、神の定められた時に、神は必ず救い出して下さいます。このことを、しっかり信じて神を見上げて生きるのです。