2017年11月26日礼拝説教 「神の羊の群れを牧しなさい」

2017年11月26日

聖書=Ⅰペトロの手紙5章1-4節

神の羊の群れを牧しなさい

 

 ペトロの手紙が記された紀元60年代は、すでに教会でもある程度の組織が整えられていた時代です。教会の組織は何のためにあるのか。1つの理由は、迫害の中で堅く信仰を守るためです。烏合の衆と言われるように、きちんとした組織を持たないと群れはバラバラになってしまう。危機に際して大切なことは、ふさわしい組織をきちんと整えることです。組織は激しい迫害の中で群れが守られ、生き残るための知恵なのです。

 ペトロは「あなたがたのうちの長老たちに勧めます」と記す。使徒たちは福音を伝えて群れが出来ると、そこに長老を立てた。長老の起源は出エジプト記に出てくる千人隊長、百人隊長、50人隊長、…から来ている。群れにかしらを立て、そのかしらに従って出処進退する。使徒たちも福音を伝えて群れが出来ると、複数の長老を立て彼らに群れの管理をゆだねた。

 ペトロは「わたしは長老の一人として」と言う。ペトロは自分も長老だと自覚してしていた。使徒の筆頭者でありながら、自分も長老の一人だと語る。この「長老」は今日の長老主義教会の長老と同じではない。ここでの長老は、今日の言い方で言うと牧師も長老もひっくるめての群れの指導者たちということです。今日では宣教長老と治会長老と言う言い方がある。この両者が含まれている。これらの宣教長老と治会長老の協力によって神のみ言葉に従った信仰共同体、神の民の群れが形づくられていくのです。

 ペトロは「キリストの受難の証人として勧める」と記す。「受難の証人」とは長老の資格と言っていい。長老は単なる世話役とか役員というだけではない。長老にとって最も大切なことはキリストの受難の証人であることです。受難の証人とは目撃証人ではない。キリストの目撃証人であれば時代が限られてしまい、パウロも入らないことになる。キリストの受難の証人とは、キリストの十字架の贖いの恵みに救われキリストのものになった人です。自分は罪人だという自覚がなければならない。罪人の自分がキリストの十字架の贖いによって赦しの恵みをいただいた恵みの証人なのです。

 ペトロは、キリストによって救われたということを強く自覚した人でした。キリストの弟子とされながらキリストを知らないと3度否定してしまった。不甲斐なさ、失格者である者が赦されて生きることが出来ている。「受難の証人」という言葉の中に、自分の大きな罪が赦されている。その赦しを受けた恵みの証人なのだと言っているのです。長老の資格は立派なすばらしい能力、才能があることではない。キリストの赦しの恵みに生かされている。この恵みなしには今の自分はあり得ないということ。キリストの恵みのありがたさに涙を流すような体験をした人こそ長老の器なのです。

 「あなたがたにゆだねられている神の羊の群れを牧しなさい」。これがペトロの勧めの中心です。神の民、教会員を羊の群れになぞらえています。羊はたいへん弱い動物で、戦闘能力に乏しい。愚かでさえある。巣に帰る能力さえも乏しい。しかし、この弱く愚かな羊を、ペトロは「神の羊の群れ」と呼ぶ。神が御子の血をもって贖い取られた神の民です。ペトロは、この神の羊の群れが「あなたがたにゆだねられている」。養育、管理、指導の権能がゆだねられている。それが「牧する」ことです。

 「ゆだねられている」とは当然、ゆだねているお方がいます。群れをゆだねているのは神です。群れは牧師のものでも、長老のものでもない。神の羊である教会員は、神のもの、神の所有です。私たちはしばしば間違いを犯す。教会は誰のものか、分からなくなってしまうことがある。牧師や役員は教会を自分のものだと考える誘惑にいつもさらされます。「…先生の教会」と言ったり、逆に長老や教会員は自分たちのものだと思い込んだりする。そして互いを批判したり、攻撃したりすることも起こる。しかし、教会は神のものです。「ゆだねられている」という言い方がなされるのです。

 「牧しなさい」とは、具体的には羊に食物を与えなさいということです。神の羊は神の言葉という糧を食して生きるのです。2章2節に「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」とある。「混じりけのない霊の乳」とは神の言葉、福音の言葉です。神の言葉を聴くことの中で、キリストの愛を知り、神の導きのみ手を知るのです。神の羊の群れである教会は、神の御言葉に養われ、導かれ、治められていくのです。

 最後にペトロは長老たちへ最も大切な勧めをしています。群れの治め方、指導についてです。治め方、指導の基本が「ゆだねられている人々に対して、権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」です。教会における指導とは、どういうことか。権力や権威を振り回して指導するのではない。では、何によって指導するのか。「群れの模範」になることです。これにはペトロのつらい経験が背後にある。ペトロは使徒の筆頭者、最初期からの弟子、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と立派に信仰の告白をした。この世的に言えば、キリスト亡き後、胸を張って組織を指導し治めることが出来た人です。だれもが認める第一人者です。

 それが出来なくなった。彼は決定的な挫折を経験した。キリストを知らないと3度否定してしまった。指導者としての決定的な失敗です。幸い再び使徒とされましたが、もはや「俺は第一人者だ」と大きな顔をして胸を張って指導することは出来なかった。権威を振り回してもだれもついては来ないでしょう。権威を振り回そうにも、大きな顔をしようにも、キリストの目がある。キリストの目の前では権威など振り回せない。

 

 ペトロはしもべとして仕える以外なかった。群れの模範として仕えることで、彼は群れを指導したのです。仕えるしもべが指導者なのです。これはペトロだけでなく、主イエスの在り方でした。主イエスも仕えるしもべとなられたのです。ペトロのあの失敗は、教会の指導者とはどういうことなのかを示す貴重な経験を得させるための幸いな経験であったと言えます。