2017年11月19日礼拝説教 「創造主に魂をゆだねよ」

2017年11月19日

聖書=ペトロの手紙4章17-19節

創造主に魂をゆだねよ

 

 ペトロ第一の手紙は、苦難について多くのことを教えています。信仰に入ることは人生から苦しみをなくす道だと考える方がいたら失望すると思う。信仰を持ったからといって苦しみがなくなるわけではない。苦しみに耐え抜く力が与えられる。神の愛を疑うことなく信仰の戦いを続けていくために、キリスト者の受ける苦難の意味を教えているのです。苦難は信仰者にとりマイナスではなく、むしろキリスト者を鍛えていくのです。

 ペトロは「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」と記す。「神の家から裁きが始まる」とは、どういうことか。「神の家」とは建物のことではない。神に属する者たち、神の民を指しています。神の民は神から多くの祝福、恵みをいただいています。罪が赦され、神の子とされています。永遠の命も与えられています。それに伴って、実は多くの責任も求められるのです。「あなたは神の民として生きているか」と責任を問われるのです。

 「神の裁き」が神の家から始められることは、旧約時代からの神の大原則でした。旧約の神の民イスラエルが神に従わない歩みをする。偶像を礼拝したり、神をないがしろにすると、神は先ずイスラエルを厳しく罰します。「神の家」とは神の住処とされるところです。ですから、神がおいでになる時、神は先ずご自分の住まいとされるところを潔めます。主イエスが最後にエルサレムに入られた時、先ずなさったことは宮潔めでした。神はご自身が住まいするところですから潔めようとされるのです。

 今日、神の家とは神の教会のことです。教会は決して建物ではありません。神の教会とは信徒の交わり、神の民の共同体です。信仰者一人一人が教会を成り立たせているのです。そして神は、この教会を先ず潔められます。神を礼拝する者としてふさわしく整えるために潔めるのです。旧約の時代には、神の民イスラエルを潔めるために、近隣諸国のアッシリアやバビロニアという国々が神のしもべとして用いられました。

 今、このペトロ第一の手紙が送られようとしている小アジアの諸教会に火のような試練、迫害が襲いかかっています。ペトロは、この苦難と迫害の中に「神による潔め」を見ているのです。ローマ帝国と地域の住民による迫害を、神の民を潔めるための神のしもべ、神の器と見ているのです。神の民が神の民としてふさわしくされるための訓練です。練り鍛えられる時が今、始まったと見ている。「今こそ、その時が来た」という言葉です。

 では、なぜ、神は神の家である神の民を、火のような試練によって潔められるのか。神はなぜ、その民を裁かれるのか。神は決してキリスト者たちを滅びに定めるために裁くのではありません。ペトロは、信仰者に対する迫害の苦しみは、火が金属を練り鍛えるように混ざりものを取り除いて純化するためのテストであると理解している。神は私たちを滅ぼすためではなく、私たちを神の民として一層真実なものとしようとしておられるのです。ですから、この「裁き」は神の民を愛し完成させるためなのです。

 神は、私たちを愛してキリストを十字架につけて贖いをしてくださいました。私たちは罪を赦されて神の民として下さった。しかし、それだけでなく、神は私たちをキリストに似る者としようとしていて下さいます。神の子としてふさわしいものへと整えてくださるのです。私たちの中にある不信仰と罪の性質が取り除かれようとしているのです。それが苦難の意味です。この苦難によって、神に似る者、キリストに似る者となるのです。

 ペトロは「だから」と語ります。私たちは理由の分からない苦しみを受けているのではない。私たちは神の子とされています。その神の子として整えられるために苦しみを受けているのです。その苦難が国家的な迫害であろうと、社会の無理解や人々の嘲りから来る苦しみであっても、それらの苦難は私たちを神の子として潔め、鍛錬するためのものなのです。

 そこで、この苦しみが神の御心によることを受け入れる人は「善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と命じるのです。ペトロは、ここで神を「創造主」と記します。天地の造り主です。人間がものを作る時、気まぐれで作ることもある。しかし、神が天地を作られた時、愛情と慎重なご計画の中で、この天地、そして私たちを造られました。「私なんか、神は見ておられない、見捨てられている」と考える人もいるかもしれない。ペトロは、決してそうではないと言っている。神は私たちを真実の愛をもって造られた。天地を造られた神は、あなたを掌の中に刻み込んでおられる。神はあなたの「造り主」だと語っているのです。

 「ゆだねる」とは、引き渡すという意味がある。私たちの魂を神の懐に引き渡すことです。人間の魂は、この世にあって必ずどこかに結びつかなければ生きていけないものです。人は何らかのものと結ばれて平安を保つのです。今日では、このような結びつきがほころびています。親子の結びつき、夫婦の結びつきも、安心感を与えるどころか、逆にノイローゼの原因になる場合があります。私たちの魂の絶対的な拠り所とはならない。しかし、ただ一つ確かな拠り所があります。私たちの創造者である神に自分を委ねることです。これ以外に私たちの安心する拠り所はありません。ペトロは、神を「創造主」と呼んでいます。私たちの魂と身体を作られたお方です。赤ちゃんがお母さんの懐の中でホッとして安らぐように、私たちは造り主である神の中で絶対的な拠り所を見出すのです。

 主イエスが十字架にかけられた時、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ福音書23:46)と叫ばれました。主イエスの生涯は苦難の連続で、最後は十字架の死で終わる生涯でした。私たちはこの十字架のキリストに結ばれているのです。主のご生涯はひたすら神のみ心に従うものでした。最後の最後まで神の御心に従い抜いて、その魂を父なる神のみ手にゆだねられたのです。この主イエスのお姿は、主イエスの後に従う私たちにとっての導きであり、手本なのです。苦難の主に従いましょう。