2017年10月29日宗教改革記念礼拝 礼拝説教 「宗教改革とは」

2017年10月29日

宗教改革記念礼拝  

聖書=ガラテヤの信徒への手紙3章26-29節

宗教改革とは

 

 宗教改革記念日はプロテスタント教会特有の記念日です。今日、カトリック教会とは違いを認めながら、互いが兄弟であることを認め協力するようになっています。最も大きな協力が聖書の共同翻訳ということに現れてきました。教会にとって最も大切な聖書を共同で翻訳する時代になっています。カトリック教会は決して仇敵ではありません。いろいろな問題はまだ残っていますが同じキリスト教会です。違いがあることを互いに認め合った兄弟姉妹として交わりをしていくのです。

 しかし、私は宗教改革の重みは少しも変わらないと思っています。宗教改革は「福音の真理の再発見」であるからです。人間の世界では、いつでも福音の真理が明かであるわけではありません。時代により、社会状況の中で、福音の真理が見失われることが起こります。その時、信仰の基本に立ち帰るのが宗教改革です。福音の真理が新しく正しく理解され直す。これが宗教改革です。教会の週報1面に「み言葉によって常に改革され続ける教会」と記しています。宗教改革は、今も継続されているのです。

 ガラテヤ書3章27節に「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」と記されています。宗教改革者ルターはガラテヤ書注解の中でこの箇所を「キリストを着ることには、2つの方法がある。1つは律法的であり、2つは福音的である」と注解しています。律法的に「キリストを着る」とはおかしな言い方かもしれません。それは自らキリストを着ようとする努力、人間の業を指しています。神の戒めに従って1つ1つ正しい行いを積み重ねて行くことによって、神への忠実さを神に認めていただき、神から義とされることを期待する道なのです。

 これに対して、ルターは福音としてキリストを着ることを再発見した。「キリストを着る」とは、「信仰により、キリストに結ばれる」ことです。主イエスが語られた例え話があります。マタイ福音書22章に記されている王子の婚宴の物語です。婚宴の席で礼服を身につけることが求められています。突然の招待のために王の方であらかじめ礼服を用意してあり、席に着く前に一人ひとりに渡しておいた。ところが、用意された礼服を着ない人が一人いた。もしかすると、すばらしい礼服を自前で着てきたのかもしれません。渡された礼服よりももっと立派なものだという自尊心があったかもしれません。しかし、王の祝宴に出る時に、自前の服がどんなに立派でも、その人の作ったものでは駄目なのだということです。

 この例えが示していることは、神の国の祝宴にあずかるにはある条件があるということです。神の国に入るには礼服を着なければならない。そして、その礼服は自分で作ったものでは駄目だということです。どんなに立派なものであっても駄目なのです。この礼服こそキリストを着ることなのです。キリストの十字架の血によって清められた白い衣以外は神の国で着ることを許されない。神の国の王である父なる神の前に出るためには、それに相応しい礼服を着なければなりません。神が整えて与えて下さった礼服を感謝して受け取り、着ることが信仰であり救いなのです。キリストを信じる信仰を持つこと、つまり信じて洗礼を受けることが、神の祝宴にあずかるために神から与えられた礼服を着ることです。キリストという礼服を身にまとって、私たちは神の前に立つのです。

 キリスト教信仰は一般に聖書的信仰と言われます。実は、この「聖書的信仰」が問題なのです。ルターがここで語るように「律法的にキリストを着る」ことも聖書から読み取り可能なのです。ユダヤ教的聖書理解です。中世の修道院が理解したようにも読むことも出来るのです。ある固定化した読み方で聖書を読む時に、人間的なものがくっついてくるのです。大切なことはキリストの福音、救いを恵みとして受け取る信仰の道をしっかりと掴むことです。これは教会の伝統だ、あるいは改革派教会の伝統だと言われるものがあります。それらも教会を固定化してしまうものであるかもしれません。これが聖書的だ、これが改革派の伝統だと言うことを、もう一度、キリストの福音の原点から読み直してみることも必要なのです。教会は絶えず自己検討、自己検証をすることが求められているのです。

 最近、女性の教会役員、長老・牧師への道が開かれました。長い間、伝統的に女性が長老・牧師になることは聖書の教えるところではないとしてきました。しかし、聖書をもう一度、根本的に読み直して、伝統的と言われてきたことが改革されたのです。教会は、キリストの福音という恵みの視点から、問い直し、読み直しをしていくのです。これが宗教改革です。

 キリストを着ることが神の前に立つことのできる唯一の礼服ですが、この礼服はタンスの中にしまっておくのではありません。礼服であるキリストを着たまま毎日の普段の生活、日常の生活をするのです。ローマの信徒への手紙の中で、パウロは「主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」(13:14)と言います。毎日の生活の中でキリストを身にまとって生きる。誘惑と戦う時も、身にまとうのはキリストです。キリストを着て、礼服に身を馴らしていくのです。ぎこちなさがありますが、着続けると礼服が身についてくるのです。「神の子にふさわしく」なる。これが日毎の宗教改革です。

 

 キリストという礼服を着る。キリストを頭から足先までマントのようにかぶっていると言っていい。私たちの中身は醜いもので一杯です。しかし、キリストを着ていれば、中身は何であろうと、外から見れば分からない。キリストみたいに立派な人間であるはずはない。しかし、私たちが神の前に立つとき、神はキリストを見てくださるのです。神の目にはすべてが見えるのに、神はそれを見ないのです。キリストは私たちの罪と恥の姿を、御自分の血によって白くされた礼服をもって覆い隠して下さいます。父なる神は私たちを覆ってくださるキリストを見てくださるのです。