2017年10月22日礼拝説教 「身を慎み、よく祈れ」

2017年10月22日

聖書=Ⅰペトロの手紙4章7-9節

身を慎み、よく祈れ

 

 ペトロは「万物の終わりが迫っています」と記します。信仰者であれば、この世界は神が造られたもので、始まりがあり終わりがあることは知っている。にもかかわらず、それを受け入れにくい。気付かないようにしている。キリスト教会は、主がおいでになるという信仰に生きてきた。ヨハネ黙示録22章20節で、主イエスは「しかり、わたしはすぐに来る」と言われ、教会は主の約束に対して「アーメン、主イエスよ、来てください」と答えている。ペトロは、この主イエスの再臨の時が迫っていると言う。

 「万物の終わり」には、終わり、終結の意味と共に成就、完成という意味がある。ペトロの語る「終わり」は地球の壊滅とか人類の滅亡ではない。主イエスが来てすべてを新しくされる時です。罪により堕落した世界の秩序を終わらせ、新しい天と地が回復されます。キリスト者は主のみ姿に似た者に造り変えられ、キリストの花嫁として迎えられます。天地創造の目的が完成する時、神の救いが成就する時です。「迫っている」とは、その完成の時の近いことを示す言葉です。

 ペトロは終末の時の切迫を語り、「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」と語る。「非常時」という言葉が語られることがある。日本では戦前「非常時」という言葉で人の冷静な判断を奪って戦争に駆り立てました。この手紙が送られた時代の小アジアの教会こそ、非常時にあった。いろいろな形で迫害が始まり弾圧が起こっていた。状況が緊迫すれば、教会の中にも不安と動揺が起こります。周囲の人たちから差別を受け、厳しい弾圧にさらされる。動揺するのも当然でしょう。

 その混乱する中で、ペトロは「だから、思慮深くふるまい」と勧める。すぐにかっとして我を忘れるようなことがなく、自分の心と行動とをきちんとコントロールすることです。理性をしっかりと保ち、分別を持ち、自分を抑えることです。周囲は混乱し、不安と動揺が社会を覆い、教会の中にも混乱と不安が溢れている。その中で、冷静に事態を見つめて判断することです。「キリストの恵みの支配」をしっかりと見つめることが分別を弁えた生き方です。この生き方は紀元1世紀末のキリスト者だけでなく、今日の不安と混乱の中で生きる私たちに求められている生き方です。

 「身を慎む」という言葉は、聖書の著者たちが好んで用いた言葉です。「酔っぱらっていない、素面である」という意味です。激高したり陶酔してしまわない。それが身を慎むことです。ある人は「身を慎む」を説明して、自分の生活に責任を持つことだと言っています。激高し陶酔することは、自分を見失うことで、時の流れに身を任せることです。そうではなく、しっかりと自分の人生に責任を持って生きることです。

 「よく祈りなさい」と勧めます。信仰に根ざした分別を持ち、責任を持って生きるためには具体的に祈りに励むことです。祈りを忘れるところで罪と失敗を犯します。祈るとは、どういうことか。私たちの願い求めを申し上げることだけでしょうか。それも祈りですが、祈りの全てではありません。キリスト者の祈りは、神の御心を求めることが祈りの基本です。自分のこと、家族のこと、友人のことなど熱心に祈ります。しかし、その全てにおいて「神よ、どうぞ、御心をなして下さい」と祈るのです。私たちが世の流れに流されないで、冷静に分別を持ち、自分を見失わないで生きることのできる道は、神の御心を求める祈りの中においてなのです。

 次に、ペトロは「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい」と記す。終わりの時を待つキリスト者の社会的責任についての勧めです。隣人との関わり方です。今日、世界の指導者たちがやられたら、やり返す。やられる前にやっつけると、やくざのような物言いの仕方をしている。言うことを聞かないなら圧力をかけて締め上げろ。これが今日の世の流れです。しかし、聖書は「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ書12:20-21)と教えるのです。

 ペトロが勧めていることは、このローマ書の教えです。「心を込めて愛し合うこと」、「もてなし合うこと」です。これは教会の信徒同士の在り方についてだけではありません。この世の隣人に対するキリスト者の務めなのです。「心を込めて」とは「緊張して」と訳すことのできる言葉です。必要とされている時に、必要な折りに、打てば響くような形で応える愛なのです。愛し合うことは、抽象的なものでなく「もてなし合いなさい」と言われるように、実際的、具体的な奉仕の働きです。「もてなす」ことは、古代からキリスト者が大切にしてきたことです。このもてなすべき隣人は、私たちを弾圧し迫害する人たちをも含んでいます。教会のディアコニアの働きこそ、今日の私たちに求められている「もてなし」ではないでしょうか。

 「愛は多くの罪を覆う」とは、どういうことか。相手をいたわり思いやることだけではない。実は赦すことです。教会員であっても、いやむしろ教会員だからこそ、赦しを必要としている。ペトロは主イエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と尋ねた(マタイ福音書18:21-35)。主イエスはそれに対して「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」と言われて1万タラントンの負債を許された僕の譬えを語られました。私たちは互いに赦し合うことが必要です。それがなければ、この社会は恨みと憎しみの交差する場となってしまいます。赦しは主イエスによって罪が赦されたことを覚えるところでなされるのです。主イエスの愛と恵みによって赦されたことを覚えて、互いに愛し赦し合うことがなければ、罵り合う場になってしまうのです。これが、差し迫っている迫害の危機に対してもなお、私たちが保つべき信仰者の在り方なのです。