2017年10月8日礼拝説教 「神に信頼して歩む」

2017年10月8日

聖書=創世記22章1-19節

神に信頼して歩む

 

 だれでも「不安におののく時」があるのではないか。先が見えない、これからどうなっていくのか見当がつかないことは大きな不安です。ここに登場するのはアブラハムです。信仰の父と呼ばれるが、波乱も悩みも失敗もありました。悩みながら神に従っていった一人の信仰者でした。アブラハムの歩みは不安と悩みを抱えて歩む私たちの歩みです。

 「これらのことの後で、神はアブラハムを試された」。神はアブラハムをその生涯の中でしばしば試みられた。神は、あなたの子孫を星の数ほどに増やすと約束された。しかし、子はいつまでも与えられない。老いて行くばかりです。人間の力で解決しようし、かえって大きな傷を受けた。しかし、神はこのアブラハムに約束の子を与えてくださいました。イサクです。

 今、神は「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。…山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じた。「独り子イサク」。かけがえがないという親の情だけではない。神の約束がこの子にかかっている独り子です。この時、イサクがどのくらいの年齢であったか。薪を背負って山を登れるのですから立派な若者に成長していた。年老いた親にとり頼もしい存在です。それを焼き尽くす献げ物として捧げよと言う。宗教改革者ルターは「アブラハムは真っ青になったろう。彼は息子を失うだけではない。神がうそつきに思えた。神はこのイサクと契約を立てて、彼の子孫のために永遠の契約とすると言われた。ところが今、そのイサクを殺せと言われる。こんな矛盾する神を誰が憎まないだろうか」と記す。ルターだけでなく私たちの思いです。

 神は、アブラハムがイサクをかけがえもなく愛していることを知っている。その故に試された。イエスは「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない」(マタイ福音書10章37節)と言われた。神への真実が試されている。神は人を試みます。アブラハムを試み、ヨブを試み、ペトロやパウロも試みられた。神は、試みにおいて深い御心を教えようとしておられます。私たちは試みられる時、神の御心を求めなければならない。

 アブラハムはどうしたか。「次の朝早く、アブラハムはろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った」。この時、ベエル・シェバにいた。「モリヤの地」は後にエルサレム神殿が建つ場所です。この旅路に3日かかった。80キロほどある。重い足取りであった。疑いやつぶやきもあったろう。重苦しい旅でした。アブラハムは若者たちに苦しい胸の内を相談することもできた。絶体絶命の状況から逃げることもできた。しかし、アブラハムは一人で耐え抜く。麓に来ると、「献げ物に用いる薪を取って、息子イサクに背負わせ、自分は火と刃物を手に持った」。黙って、神のご命令に従い抜く。

 「二人は一緒に歩いて行った」。モリヤの山は標高800メートルほどの台地です。見上げるような坂道を踏みしめて黙々と上っていく。イサクは、今や異常さに気がつく。不安に駆られた。すべてが変だ。父の沈黙も変ですが、何より犠牲の動物を携えていないことです。イサクは沈黙を破る。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。家を出た時から心の中にあった問いです。父を信頼してあえて問わないできた。しかし今、問う。この問いによって父の心が分かってくる。

 アブラハムは「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と答えた。「神御自身、神自ら、備えてくださる」。神への心底からの信頼の告白です。誰が見ても、どうにもならない時にも、神に対する信頼と希望を失わない。これが神の摂理を信じることです。摂理は英語で「providence」と言う。「先を見る」という意味がある。へブライ書11章1節に「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」とある。信仰は見えないことを見る、見えている現象のその先を見ることです。けれど、信仰者でも先を見ることはできません。アブラハムもこの後に起こることを見ているのではない。

 「先を見る」とはどういうことか。神がいまして、神が世界を支配しておられることを確信することです。神が支配していることを知ることが、先を見ることです。これが神の摂理を信じることです。肉眼には何も見えないけれど、神がこの世界を支配しておられ、神が備えてくださることを確信するのです。アブラハムとイサクは、子の問いと父の答えの中で、この摂理信仰を確立したと言っていいのです。

 神の備えを確信した二人は、もう不安の世界にはおりません。8節の「二人は一緒に歩いて行った」は、「神が備えてくださる」という確信を持っての歩みです。二人の行為を表す動詞が次々に出てきます。しかも非人間的とも言える行為です。アブラハムもイサクも涙一つこぼさずに、いつもと同じように用意を調えていく。ここに神の備えを信じ抜いた人の姿がある。どのように導かれるのかは全く分からない。神が備えていてくださることを信じるところで、いつもと変わらない営みがなされていくのです。

 その時、主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が「はい」と答えた。この「はい」で試みの物語は終わる。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ」。神は恵みをもって備えていてくださった。「ヤーウェ・イルエ」(アドーナイ・エレ)、「主の山に、備えあり」です。アブラハムを試みた神は、私たちをも試みます。しかし、先回りして備えしてくださるのです。神がすべてを見通して必要なものを備えていてくださいます。どんな時にも、神の恵みの備え、神の摂理を確信して生きていくのです。教会は神が恵みをもって支配し備えていてくださることを確信して歩むのです。神が必要なものを備えておられることを望み見て歩みを続けるのです。