2017年9月17日礼拝説教 「復活と昇天のキリスト」

2017年9月17日

聖書=Ⅰペトロの手紙3章18-22節

復活と昇天のキリスト

 

 ペトロは、この箇所で苦難のキリストを示すと共に、勝利されたキリストを記している。そして、キリストに結ばれて私たちも勝利するのです。勝利されたキリストと、キリストの勝利にあずかる私たちの望みを学びたい。私たちの希望と慰めはキリストにかかっています。キリストを抜きにしての希望はありません。使徒信条の中で、キリストについて「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と告白する。ペトロの言葉をそのまま受けています。この復活、昇天、神の右への着座を神学用語で「高挙のキリスト」と言い、ここに私たちの希望がある。私たちは高く挙げられたキリストと一つに結ばれています。

 ペトロは、キリストの十字架の苦しみの後に勝利を語ります。先ず、「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」と。主イエスは十字架において「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ福音書23:46)と言われた。主イエスは死の時、その霊は解放され、父なる神に委ねられ生きる者とされた。体の復活に先立つ霊の勝利です。十字架の死はすでに勝利です。人の目には、死という敗北以外ない時に、キリストの霊は勝利している。死のただ中に神の勝利がある。本当の勝利はそういうものです。敗北と見えるところから神の勝利は始まっている。そして、復活によって勝利が確定しました。死をくぐり抜けた勝利です。

 ペトロは、ここでノアの箱舟の物語を取り上げます。なぜ、ノアの箱舟の物語を突然、取り上げるのか。キリストに結ばれた者たちの勝利を物語ろうとしているのです。これは洗礼の神秘を語ろうとしているのです。私たちもキリストに結ばれて、キリストの勝利にあずかるのだということを、水の洗礼によって示そうとしているのです。人間が皆、神に背いてしまった時、神は大洪水を通してこの世界を裁かれた。その時に、救われたのは神の言葉に従ったノアの家族だけでした。この人たちが勝利にあずかったのです。ノアは神のご命令通りに箱舟を造って、洪水に備えた。このノアの警告の言葉に従ったのは、彼の家族の数人、8人だけでした。

 多くの人たちはノアの警告に耳を貸さなかった。神に不従順であったのは、ノアの箱舟の時の人たちだけではありません。この人たちはキリストの福音に耳を貸さない人たちの代表です。しかし、その中で救われた人たちがいた。「この箱舟に乗り込んだ人たち」です。この箱舟はキリストを意味しています。ノアの時に救われた人たちは箱舟に乗り込み、箱舟の中で文字通り水をくぐって救われました。そして、ペトロはこれが「洗礼を表している」と語るのです。ノアの時の人々も、今日の私たちも、キリストに結ばれて、洗礼の水を通して救われるのです。

 「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」。救うお方はキリストであり、キリストに結ばれて箱舟に入って水を通って救われるのです。キリストの救いは、どこにおいても、いつの時代でも変わりません。そして、この水の洗礼はキリストの復活を表し、その復活によって「あなたがたは」救われるのだと語っているのです。洗礼はキリストの復活のしるし、勝利のしるしです。

 私は福音派の教会で、川の中へ「ドボン」と浸かる全侵礼で洗礼を受けました。この全侵礼だけの固執は聖書的ではない。使徒言行録に残されている洗礼の形は、水を注ぐ滴礼か、頭の上からある程度多量の水を注ぐ「灌礼」であったろうと言われている。しかし、私はこのバプテストの人たちが主張する洗礼における「沈める」という意味を決して否定しない。水に沈めることは死を意味し、水の中から起こされることは復活を意味するのです。ここに洗礼の大切な意味があることを、私たちも受け入れます。

 洗礼はキリストに結ばれたことをしるしづけるものです。そして、それはキリストの死と復活とにあずかることです。キリストに結ばれて、キリストと共に死ぬ。そして、キリストに結ばれた者として死からよみがえるのです。受洗者はキリストと共に死ぬ。そしてキリストと共によみがえるのです。洗礼はこの死と復活のしるしであるということです。「わたしはキリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ書2:19)。そして「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました」(エフェソ書2:5)と記されているとおりです。

 キリストは本当に苦しみを受けられました。しかし、その苦しみのただ中でも、霊においては生きる者とになり、勝利されました。その勝利が明確になるのは復活によります。そして、復活だけでなく「キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです」と続きます。「天使・権威・勢力」、いずれも複数形で、復活のキリストの支配の包括性、全体性を表していると言っていい。キリストは、神としての栄光と権利と支配を回復されたのです。

 主は、十字架において死に打ち勝ち、復活によって勝利を明らかに示されました。そして今、天上においても、地上においても、地下においても、一切において神の救いが完成された。ペトロがこの個所で言いたいことはキリストの勝利なのです。そして、この勝利に、私たちも洗礼によって結ばれ、連なるのです。パウロはⅡコリント書2章14節で「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」と記します。私たちはキリストに結ばれて救いの中に入れられ、神の勝利にあずかります。キリストという箱舟の中に導き入れられた人は、キリストの勝利に連なります。キリストは勝利者です。私たちもキリストと一緒に勝利の行列に加われるのです。私たちが今、どんなに苦しみの中にあっても、迫害の中にあっても、キリストは勝利しておられます。私たちはキリストの勝利の行列の中にいる。この確信を持って歩んでまいります。