2017年9月10日礼拝説教 「降られ、苦しまれたキリスト」

2017年9月10日

聖書=Ⅰペトロの手紙3章17-22節

降られ、苦しまれたキリスト

 

 ペトロ第1の手紙が宛てられている小アジア地方に住むキリスト者たちに、まもなく激しい迫害が起こり苦しむことになる。しかし、キリスト者の信仰生活にはもう一つの苦難があります。迫害によって苦しむことは、なくてほしい。無くていいことです。しかし、信仰者として苦しむことは必要なのです。キリストに従うからです。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9:23)と言われた主イエスに従うためです。迫害は苦難の1つに過ぎません。「自分の十字架」とは、人生そのものです。生きること、老いること、病むこと、死に直面すること、人生自体が苦難です。自分の十字架を背負うとは、キリストに従って、キリストと共に苦しむことです。

 ペトロは、「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」と記します。キリストが正しくない罪人のために苦しんでくださった。生ける霊なる神の御子が、人となられてこの地に降り、罪人が支払うべき罪の支払い、地獄の苦しみを苦しみ抜いてくださった。ここにキリスト教信仰、福音の真髄があります。

  キリストの苦難は、表面的にはユダに売られ、ユダヤ人の怒号の中で迫害の苦難のように見えますが、実は主イエスご自身が選び取られた苦難です。罪人を愛して、神が人となり、罪人の苦しみを担ってくださった。「あなたがたを神のもとへ導くため」に苦しみ抜かれた。十字架の苦難をもって罪人を贖い、救い出して下さった。私たちの救いは、キリストの苦難を経て与えられる救いです。私たちは、苦しみを担われたキリストを受け入れ、私たちもまた十字架を背負う生活をするのです。

 聖書の中には、わかりにくい箇所がある。この19-20節も解釈者を悩ませるところです。いろいろな学説がある中で、ローマ・カトリック教会の煉獄説が出てくる根拠となっています。煉獄という場所があり、未信者や信徒でも罪が重く直ちに天国に行けない人が死んだ後に行くところと言い、それが「ノアの時代に、従わなかった者たち」がいる世界だと理解します。その煉獄にいる人がもう一度、福音を聞く機会が与えられるという説がここから出てきます。その時に援用されるのが使徒信条「陰府にくだり」です。「陰府」を、ここに読み込んで「イエスは、十字架に死んだ後、復活までの間に、陰府・煉獄に行って福音を宣べ伝えた」と解釈します。

 死んだ後に、もう一度、福音を聞く機会があるということは、たいへん魅力的な教説ですから、プロテスタントでもこの理解を受け止める人がいます。しかし、それは煉獄説が大前提になっています。この煉獄について聖書はなにも記しません。非聖書的な思想です。

 ここで「陰府」について少しだけお話します。使徒信条の中に「主は、…十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり」と告白されています。この「陰府くだり」は、どういうことか。聖書の中に「陰府」という言葉は時折出てきますが、煉獄などではありません。「シェオール」というヘブライ語、「ハデス」というギリシャ語の基本の意味は死者のいるところ、具体的には墓地を意味しています。使徒信条の「陰府にくだり」は、主イエスが「死んで墓に葬られた」ことを繰り返す強調の言葉なのです。

 「陰府くだり」についての最もよい解説をハイデルベルク信仰問答がしています。44問答です。「問 なぜ『陰府にくだり』と続くのですか」。「答 それは、わたしが最も激しい試みの時にも次のように確信するためです。すなわち、わたしの主キリストは、十字架上とそこに至るまで、御自身もまたその魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れとによって、地獄のような不安と痛みからわたしを解放してくださったのだ、と」。「陰府にくだり」とは、十字架の死と葬りにおいて、主イエスの受けられた「魂において忍ばれてきた言い難い不安と苦痛と恐れ」を表す言葉なのです。十字架の死の苦難の極限を「陰府にくだり」と表現しているのです。

 この箇所で語られていることは、キリストがこの地に降られ、人となられて、苦難を受けられたことです。「正しい方」であるキリストが、「正しくない者たち」つまり私たち罪人のために苦しまれたのです。この苦しみは「あなたがた」つまり罪人の私たちを「神のもとに導く」ためです。キリストは私たち罪人を救うために来られたお方であると記します。神であるお方が死すべき人の肉を取られました。その肉は「死に渡されます」。主イエスは死ぬべき人間性をお取りになられました。しかし、主イエスは復活に先立って、元々「霊では生けるお方」なのです。

 「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」。これこそ、この地に降られた生けるキリストの本来のお姿です。福音を宣べ伝えるキリストです。「捕らわれていた霊たち」とは、死に捕らえられ、救われていない魂のことです。それを「ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者」たちのことだと語る。ノアの時代に悔い改めなかった人々は福音に耳を貸さなかい人たちの代表なのです。そういう人たちに、生きた霊であるキリストは伝道されたのです。主イエスは、すべての町々、村々に福音を宣べ伝えられた。このキリストは、御自身の生ける霊を、私たちに与えて、今も宣教を続けられておられます。今日の私たちの伝道・宣教は、罪によって捕らえられている霊的死人に対する霊なるキリストの宣教なのです。

 生きた霊であるキリストの宣教は、今も続けられています。福音を宣べ伝えるキリストの足跡の残されていないところは、地にも地下にもどこにもありません。霊的な死人にも福音を語られたということは、主の救いの力の及ばない世界はどこにもないということです。キリストの福音の及ばない世界は、どこにもないということを、ペトロは語りたいのです。