2017年9月3日礼拝説教 「いつでも弁明できるように」

2017年9月3日

聖書=Ⅰペトロの手紙3章13-17節

いつでも弁明できるように

 

 ペトロは、「義のために苦しみを受けるのであれば」と記します。何の悪いこともしていなくても、犯罪を犯さなくても、ただキリストを信じているというだけの理由で苦しみを受けることがあります。昔も今も、キリスト教が煙たがられたりすることは変わりません。誤解されることも多く、迫害まで行かなくても嫌がらせはなくなりません。信仰生活には、昔も今も困難を感じさせられます。ペトロは、このような困難な状況の下にある信仰者に3つのことを勧めています。

 1つは、「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」ということです。善いことに熱心であることです。「熱心」と訳された言葉は、熱く激しい思いです。善いことを行うことに熱く激しくなれと勧める。しかし、この「善いこと」は自分が倫理的、道徳的に行い済ませて立派な人間になる「善」ではありません。

 ここで勧められている「善いこと」は、隣人との関わりでの「善いこと」です。「善きサマリア人になる」ことです。分け隔てなく隣人を愛して仕えることです。手を差し伸べる働きです。これが初代教会で、ローマの世界で、キリスト教が飛躍的に伸びた力の源泉です。「善きサマリア人になる」こと、隣人に仕えることは、今日の私たちにも求められています。

 ここで「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」と言う言葉が生きてくる。キリスト教に対する無知から、無理解から、苦しみを受けることが多くある。しかし、その時、キリスト者は怒り狂ってはならない。ますます「善きサマリア人」としての働きを熱心に行うのだと、勧めている。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ福音書10:28)と言われた主のお言葉が思い起こされます。「人々を恐れるな」という言葉は、主イエスから受け継いできた御言葉なのです。

 ペトロが勧める第2の点は、より積極的に「心の中でキリストを主とあがめなさい」ということです。迫害されたり、困難に遭う時、私たちは萎縮してしまう。心が萎えてしまう。その時に、なすべきことは「心の中でキリストを主とあがめること」です。人を恐れず、この世を恐れることがないために、いつも心の中で、キリストを主とあがめることです。「キリストを主とあがめる」とは、私たちの信仰の基本です。キリストが私を罪と滅びの中から贖い取って、私のまことの主人、所有者、慰め主となってくださったことを信じて礼拝することです。

 私たちは今、会堂でキリストを公に礼拝しています。多くの人と一緒に、大きな声で主を賛美し、キリストを主として受け入れ、公に告白しています。これは、いつも心で主をあがめることの訓練でもあります。迫害の時、捕らわれた時、会堂に集うこともできなくなる。その時に、キリストを心の王座に据えて、聖霊によって心を支配していただき、キリストを礼拝するのです。まことの礼拝の場所は私たちの心です。この会堂での私たちの礼拝は、苦難の時に備える訓練という意味があるのです。

 最後に、ペトロが勧めることは「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」です。これは迫害に備えするだけでなく、私たちにいつでも求められている大事な備えです。「あなたがたの抱いている希望」とは、キリスト教信仰のことです。パウロはコリント第1の手紙13章13節で、キリスト教信仰の内容を「信仰、希望、愛」と要約しました。キリストを信じて与えられる罪の赦しも、子とされることも、永遠の命も、神の国を相続することも、私たちの希望なのです。不確定なことではなく確かな希望なのです。

 信仰について「説明を要求する人」とは、迫害の時にキリスト者を捕らえて取り調べる係官などを指す。しかし、広く私たちの信仰について日常生活の中で説明を求める人たちと理解してもいい。悪意をもって反対する人に対しても弁明することが求められます。好意をもって尋ねる方もおられます。真剣な求道の志をもって、それだけに深いところから説明を求める方もおられます。いつでも弁明できるようにしておくことです。

 その時に備えて、弁明するために備えていくことです。私はキリストを確かに知っている。私はキリストの恵み深さを体験していると語らねばならない。神がおられること、その神の恵み深さ、その恵みによって生きていることを証しすることが弁明なのです。しかも、ペトロはその弁明の態度について念入りに教えています。「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で」と記します。「穏やかに」と言います。自分の信仰を弁明する時、穏やかにやさしく語る。自分の信仰を語る時、熱狂しがちです。信仰を語るとなると度を過ごした熱狂になりがちですが、慎み深くあれと言う。穏やかに慎み深くあるためには、揺るぐことのない確信と知識が必要です。確信が乏しい時、居丈高になり、熱狂しがちです。

 「弁明するように」と言われると、さあたいへん、一生懸命勉強しなければ、と思う。聖書の勉強をし、教理をきちんと学ぶことは大切です。しかし、相手を言いくるめるために聖書や教理を学ぶのではありません。それは異端の人たちがする聖書の勉強法です。私たちの学びは自分の信仰の成長のためです。知識だけで弁明するのではない。キリストを主とあがめて生きる生活をもって弁明するのです。信仰の弁明は言葉と生活の両面からの証しを通してなされるのです。家庭を放り出してめちゃくちゃにしておいて、理屈で相手を言いくるめることではない。それでは証しになりません。弁明できるように備えるとは、神に望みをおいた人として生きることです。キリストを死人の中からよみがえらせた生ける神に信頼して生きていること、生かされている恵みの事実を示すことです。