2017年8月27日礼拝説教 「主の目、主の耳」

2017年8月27日

聖書=Ⅰペトロの手紙3章10-12節

主の目、主の耳

 

 この箇所はカギ括弧の中に入っている詩編34編13-17節からの引用です。引用箇所からの説教は、あまりしないのですが、あえてしてみようと思いました。それは極めて大事な引用だからです。ペトロは、8節で静かに落ち着いた信仰生活をしなさいと勧め、9節で「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」と勧めた。この勧めの聖書的根拠として引用しているのです。

 ペトロは、詩編34編13節を引用し「命を愛し、/幸せな日々を過ごしたい人は」と記します。ところが旧約本文を見ると「喜びをもって生き/長生きして幸いを見ようと望む者は」です。この地上の生活が前提になり、長生きして、地上で幸いに生きる。そのためには…、というのがヘブライ語本文の意味するところです。しかし、ペトロの目は上に向けられています。永遠の命と神と共にある終末の祝福へと向けられている。それが「命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は」となる理由です。「命」で意味するのは、地上での長生きではなく、永遠の命です。永遠の生、神と共に生きる幸いな生き方を望む人は、と意味が移行している。ペトロは詩編34編を引用しつつ、私たちの目を上に向けさせようとしている。私たち信仰者の生き方を終末を目差す生き方へと変えようとしているのです。

 信仰生活は、神の生命、永遠の命を慕い求める生活です。鹿が谷川の水を慕い求めるように、永遠の命を慕い求めて生きる。地上の命がどうでもいいということではない。しかし、神にある命こそ、私たちが慕い求める幸いなのです。ペトロはこの永遠の生命を慕い求める幸いな生き方をするには、詩篇34編14節を引用し「舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、/平和を願って、これを追い求めよ」と語る。これが、ペトロが「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」と語ってきたことの聖書的根拠なのです。

 先週、このペトロの言葉は復讐の断念、同態復讐法の廃棄だと言った。ペトロがこの引用によって語りたいことは、復讐の断念は、パウロから始まるのではない。主イエスから始まるのでもない。旧約自体の中に始まっているのだと語りたいのです。旧約詩編が「舌を制して、悪を言わず、/唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり」と記している。これが実は復讐を断念することだ。「こん畜生、今に見ていろ、吠え面かかせてやる」と言ってはならない。それが「舌を制して、悪を言わず」なのです。

 そして反対に、「平和を願って、これを追い求めよ」です。旧約自体が平和、シャロームを語っている。ペトロは、詩編34編の中に主イエスが繰り返し語られた言葉を読み取っている。ペトロは、主イエスの最初期からの弟子として、主イエスの語られた言葉をしっかりと受け止めてきた。ペトロの頭の中、胸の中には、主イエスのお言葉がずっと反響している。マタイ5:44「わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。ルカ6:27-28「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」。

 主イエスは、確かにこのようにお語りになられた。繰り返し語られた。この主イエスのお言葉を忘れてはならない。敵を愛することは、旧約聖書の中にはっきり記されていると、ペトロは指摘している。ペトロも旧約に精通しています。旧約の基本的なメッセージ「目には目を、歯には歯を」という同態復讐法もよく承知していた。しかし、主イエスは同態復讐法を勧めるのではなく、「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と言われたと、主のお言葉を示し、しかもそれが旧約聖書自体の中にある大切なメッセージなのだと語っているのです。

 今日、あらゆる世界で報復合戦が行われています。やられたらやり返す。こういう報復の世界になっています。悪口を言われ、侮辱され、いじめを受ける。それに報いないと、損をしてしまうような気がする。割に合わないと思う。すぐに報復しないでも、報復の執念をジッと燃やし続ける。実は、ここに私たちの原罪があることに気づかねばならないのです。

 だから、ペトロは私たちの目を上に、神へと向けさせるのです。終末的な生き方を取り戻すのです。12節です。詩編34編16-17節からの引用ですが、実に見事に短縮されて、ある1点に集約されている。「主の目」、「主の耳」、「主の顔」という言葉です。ペトロがこれらの言葉で指摘していることは、信仰者の生活は「主の目」、「主の耳」、「主の顔」を意識しての生活ではないかということです。私たちは「主の目」、「主の耳」、「主の顔」を見失い、忘れるところで報復の執念を燃やすことになるのです。

 このことを出エジプトの出来事の中に見い出すことが出来る。出エジプト記3章7節で、主はモーセに告げた。「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った』」。神の耳と目は、民の苦しみの叫びを聞き、現実を真正面からご覧になってくださいます。存在全体をもって、まっすぐに民の苦難を見て、耳を傾けて呻き声に聞いておられます。神が身を乗り出して見ている姿、耳を傾ける姿が、ここに記されている。

 それに対して「主の顔」は、悪事を働く者たちに向けられます。厳しい怒りの顔と言っていい。「わたしが報復する」と言われるお方の顔です。神が最後に責任をとってくださるのです。

 私たちの信仰生活は、神を見上げて生きることです。私たちの信仰の失敗は神を見上げることをしなかった時です。生活の判断に、「神がおられること」を勘定に入れることです。「神の目と耳」とが、私たちの上に注がれていることを意識することです。出エジプトの時と同じように、神は苦しみ悩む私たちのもとに降って来て、道を開いてくださるお方なのです。