2017年8月20日礼拝説教 「皆、心を一つにして」

2017年8月20日

聖書=Ⅰペトロの手紙3章8-9節

皆、心を一つにして

 

 このペトロ第1の手紙は苦難を主要なテーマにしています。この時代のキリスト者たちの社会的な状況の暗さを反映しています。この手紙が記された紀元62,3年は、ローマ帝国は皇帝ネロが支配していました。ネロは紀元54年に16歳で皇帝になり、初めは哲学者セネカが助言してよい政治を行います。やがてセネカは退けられ、ネロの傲慢と狂気の政治が始まります。紀元59年に自分の母アグリッピナを殺害し、62年には妻オクタヴィアを離婚の上、殺害し、師のセネカも自死に追いやります。母親と妻を殺す狂った皇帝です。専制君主の皇帝が傲慢で狂った時、その支配下にある社会は決して明るくありません。

 この社会状況の中で、ペトロは「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい」と記す。見通しの立たない暗い時代の中で生きねばならなかった信徒への勧めの言葉です。戦前・戦中、「非常時」という言葉が流行ました。「この非常時に」と言われた。キリスト者も例外ではない。あわてふためきます。しかし、ペトロは違う。ここで勧められているのは、いつでも妥当する基本的な信仰生活の在り方です。ごく当たり前のこと、落ち着いた信仰生活をすることです。今朝、詩編46編を賛美した。「汝ら静まりて、我が神たるをしれ」と。非常時だと言って走り回るのではない。落ち着いて信仰の基本に立つことです。

 ペトロは「皆、心を1つにする」ことを勧めます。当然と言える。しかし、よく考えると何を意味しているのか。私の考えることとあなたの考えとを一つにまとめることだと考えがちです。この非常時だから、皆同じ考え方をしようと言うことか。ペトロはそんなことを語らない。信仰が同じであっても、個性をなくすことではない。趣味も違い、生活の仕方も違う。当然、考え方も違う。「心を1つにする」とは、キリストを信じる信仰において1つということです。信仰告白のことをギリシャ語で「ホモロゲオー」と言う。「同じことを語る」です。同じ信仰を告白する。そこで、私たちは心を1つにすることが出来る。信仰の一致をしっかり確認することです。

 「同情し合い」とは、一緒に苦しむ、苦しみを分け合うことです。人の苦労を自分の苦労とすることです。パウロはローマ書12:15で「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣きなさい」と勧めています。同じことです。当然、信仰の仲間に対する愛がなければ出来ません。ですから、「兄弟を愛し」と記す。信仰者の仲間は神の家族です。1つの聖餐卓を囲む神の家族です。この信徒の交わりを堅くし、互いに兄弟姉妹として愛し合うのです。

 兄弟を愛するところから「憐れみ深く」あることが生み出されます。「憐れむ」とは、お腹の底から揺り動かされる感情です。この思いは教会の仲間内だけのことではない。教会外の人に対しても親切にすることです。主イエスが多くの人を憐れまれたように、主イエスに従う私たちも教会内の人であろうと外の人であろうと、変わりなく親切にすることです。

 「謙虚になりなさい」と勧めます。キリスト者の生活で大切なことは謙虚であること。どんなに有能な人でも、高慢な人は嫌がられます。謙虚さは自分の弱さを知ることです。自分には力がある、能力があると思うと傲慢になる。私たちはキリストによって救っていただく以外ない罪人であり、弱い者だということを知る時に、謙虚になることが出来るのです。

 ペトロは、このようにキリスト者の基本的な生活の在り方を勧めます。一言で言えば、落ち着いた静かな生活です。そしてその後、迫害の中で生きる時の心得を教えるのです。それが「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」です。これが苦難を直前にしている信徒に対して語られた最も大事な勧めです。

 ここで語られていることは、復讐の断念、復讐の放棄です。悪に悪を、侮辱に対して侮辱で報いるな、と語る。仕返しをしてはならないと言う。これは旧約の「目には目を、歯には歯を」という同態復讐法を否定した言葉です。キリストのお言葉を踏まえて、復讐の放棄を命じている。これはなかなかむずかしいことです。人は、どうしても仕返しをしてしまいがちです。しかも注意しなければならないことは、ただ復讐を断念するだけではなく、「祝福を祈りなさい」と勧めている。自分を侮辱する者に祝福など祈れるかと思う。しかし、ここが大切なことです。祝福は、私たちが与えるものではない。神から与えられるものです。人に祝福を祈る時に、私たちは神の前に立つのです。人を憎み、憎悪する時、人は神を忘れている。しかし、祝福を祈る時、人は神の前に立たざるを得ません。

 神の前に立つ時に報復ではなく、祈ること、神のみ手に委ねることが出来る。パウロもローマ書12章19-21節で「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と記し、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と記しています。神の前に立つ時に、この生き方を取り戻すことが出来るのです。

 最後に、このように語る理由を記します。「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」。あなたがたは祝福を受け継ぐために信仰に入ったのではないかと問うているのです。私たちが忘れてしまうところです。信仰生活は神を相手にしての生活です。人からの報酬を求めるのではない。神からの報酬を期待して生きる。この単純なことを忘れてしまう。神だけが一切を知っておられ、神だけが罪を赦し、すべての祝福を与えてくださるお方です。「祝福を受け継ぐ」。この祝福とは主イエス・キリストにあって神から与えられる祝福、命の祝福です。主イエスは、マタイ福音書5章10節で「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」と天国、神の国、永遠の命を約束しておられます。