2017年8月13日礼拝説教 「改革派教会存立の意義」

2017年8月13日

聖書=ガラテヤ書1章6-10節

改革派教会存立の意義

 

 ガラテヤ書は、他のパウロの手紙と比べて異色です。いきなり「あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、わたしはあきれ果てています」と記す。「こんなにも早く」、福音が伝えられてから程なくです。「ほかの福音に乗り換えようとしている」は、口語訳は「違った福音に落ちていく」と訳している。単なる車線の乗り換えではない。行き先の違う列車に乗り換えてしまった。天国行きだと思っていたら地獄行きに乗り換えた。「ほかの福音」とは「似て非なる」ということです。ガラテヤの教会員たちは、パウロの伝えた福音と少し違っても、それもやはり福音だと考えていた。しかし、パウロは違うと言う。そんなものは福音ではない。キリストの福音を覆すものだと語る。

 教会の歴史の中で、このようなことは時折起こります。教会が似て非なる福音の方向に走っていく。日本にプロテスタントの福音が伝えられて70年も経っていない。それなのに日中戦争、太平洋戦争に協力するためプロテスタント諸教会が合同して「日本基督教団」を作り、天皇賛美と戦争協力に走った。戦前・戦中の教会は、似て非なる福音の方向に走っていた。それに対して、はっきりと戦前・戦中の教会が犯した罪の悔い改めをして教会の歩みを整えて出直しをした。これが私たちの教会、改革派教会です。

 改革派教会は、敗戦後直ぐ1946年4月に、日本基督教団を離脱して、教師9名、9つの小さな群れから始まりました。今日、お話しすることは私たちの教会の特色です。第1は、戦前・戦時中の教会の在り方に対する反省と悔い改めを明確にした教会であることです。私たちの教会は他の教会とそう大きな違いはありません。改革派教会とは、特殊な教会ではなく、プロテスタントの主流をなす教会です。戦前は「日本基督教会」と呼ばれていた教会の中にありました。ところが太平洋戦争開戦の直前、昭和16年6月、国家の強制によって戦争協力をしやすいように30ほどのプロテスタント教派が一括りにされて出来上がったのが「日本基督教団」です。

 この教団には、当初、信仰告白はありません。使徒信条の告白さえもなかった。代わって、天皇崇拝と国家への服従が告白された。礼拝の前に「国民儀礼」として皇居遙拝と君が代斉唱をもって礼拝を始めた。会堂にも伊勢神宮のお札が貼られ、戦闘機を献納するための特別献金が集められ、教団統理というトップの人が伊勢神宮に参拝した。教会が全体として国家神道の下に置かれた。これが「教団合同」の結果です。戦争遂行のために利用され、教会がキリストのものであることが否定されてしまった。

 この教団合同に対して以前から反対してきた人たちが、敗戦となり信教の自由が回復されるや、教団合同は罪であったと受け止めて、最も早く教団から離脱して日本キリスト改革派教会を形成したのです。敗戦の翌年、まだ新憲法も定まらない中、戦前・戦中の教会の在り方を悔い改め、教団を離脱し、改革派教会を形成したのです。国家神道の下にいた教会を最も早く本来の歩みに回復させた悔い改めた教会と言っていいでしょう。

 改革派教会の特色の第2は「明確な信仰告白を持つ」ことです。「私たちの教会は、こういう信仰を持っています」とはっきりとさせています。それがウェストミンスター信仰規準を持つことです。キリスト教会は信仰共同体ですから、その共同体として何を信じているかということをはっきりさせることが最も大事なこと、最も基本的なことです。しかし、日本の多くの教会ではこの点がおろそかにされてきました。その結果が、信仰告白をはっきりさせないでの教団合同となったのです。本当は信仰告白を大切にして、それを中心にして教会を建てていかねばならないのです。

 聖書的な信仰の告白をはっきりさせなかったことが、教団合同や戦争協力の道に走った根本的な原因であると、私たちは考えています。ガラテヤ教会と同じように信仰の道筋を見失っていた。この信仰の道筋を明確にしなかったために、教会が時代の流れの中に流されてしまった。このことを悔い改めて、信仰の告白をはっきりさせて改革派教会を始めたのです。

 改革派教会の特色の第3点として、教会と国家の関わりです。政教分離ということです。これが私たちの教会の特色です。戦前の日本の教会もカルヴァンの影響のもとにある改革派・長老派の教会であったはずですが、国家との関係に一線を引くことが出来なかった。むしろ、国家の優等生たらんとして、国家の要請に積極的に応えて歩もうとした。そのため、教会の礼拝で皇居遙拝をするだけでなく、韓国・朝鮮の教会に対して神社参拝は罪ではない、国家の儀礼であると、強く勧めるための特使を送り、国と政府に従って神社参拝をしなさいと勧めたのです。神と隣人に対する致命的な罪を犯した。このような戦前・戦中の教会の在り方を悔い改めて、たった9つの小さな群れが、新しい教会を出発させたのです。

 教会は国家とは一線を画して、聖書から国家の在り方をチェックするべき存在です。私たちが天国の民であるとは、神と聖書の視点から検討して、国の歩む道が間違っているならば、「違う」と明確に語るのが教会の責務です。戦前・戦中の教会は、この教会の本来の務めを放棄して、国の歩みにそのまま乗っかっり、神社参拝に荷担し、皇居遙拝の罪を犯したのです。

 神は、罪を犯して滅びるべき私たちを愛してくださり、キリストの贖いの恵みを与えてくださいました。十戒には神の愛と救いが先行するのです。私たちは神に愛され、救われている。この神の救済を大前提として、ハイデルベルク信仰問答第1問答は「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と告白します。私たちは贖われ、キリストのものとなっている。救いの恵みにあずかった神の民は神との愛の関係に生きることが求められています。この神と贖われた者の愛の交わりの関係を断ち切ってはならない。この関係を断ち切ることが「偶像崇拝」なのです。