2017年8月6日礼拝説教 「命の恵みを共に受け継ぐ 」

2017年8月6日

聖書=Ⅰペトロの手紙3章7節

 命の恵みを共に受け継ぐ

 

 ペトロは、ここで夫のあり方について記している。これは男だけに語られていると考えないでほしい。男も女も「共に命の恵みを受け継ぐために」、自分に対して語られている神の言葉として受け止めていただきたい。

 キリスト者である夫に対して最も基本的な勧めを語る。「妻を尊敬しなさい」です。夫が妻を尊敬するとは、どういうことか。日本では尊敬の内容がよく分からない。「山の神として奉る」ことではない。パウロは同じことをエフェソ5章25節で「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」と記す。ペトロの「尊敬しなさい」は、パウロの言葉では「愛しなさい」なのです。

 愛は、人の行動の最も大きな原動力です。愛がなければ、その行動はうわべだけのものとなり、反対に愛があればどんな辛い仕事でも引き受ける。愛があれば、相手の人の徳を立てる。夫にありがちな、わがまま、横暴、横柄、尊大、自己中心を捨てることです。相手を尊び、その人に従う。「尊敬しなさい」とは、愛を基として行動しなさいということです。

 夫の妻への愛と尊敬の基本は「生活を共にする」ことです。口語訳は「共に住む」です。夫婦は共に住むこと、一緒に生活することです。一時的な単身赴任もあるかもしれない。しかし、例外を本筋にしてはならない。夫婦は一緒に住むことが基本で、一緒に住むところから愛情が産まれ、いたわり合い、支え合う生き方が生まれる。共に住むことは、生活が便利というのではなく、夫婦の基本的な在り方なのです。夫婦の交わりは性的な交わりをも含む。その交わりが正常になされないのでは必ずゆがみが生じる。

 共に住む、生活を共にする理由として「妻を自分よりも弱いものだとわきまえて」と記す。男女どちらが強いか弱いかでは、果てしない議論になる。「女は弱し、されど母は強し」。弱い女性も母親の立場に立つと強くなる。昔から女性はそんなに弱い存在ではなかった。真の強さを持っていた。

 「妻を弱いものだとわきまえる」とは、キリストとの関わりで考えねばならない。パウロがエフェソ書5章25節で「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」と語った。キリストと教会の関係と対比して夫と妻の関係が語られている。教会は欠けのない強い人たちで成り立つのではない。欠けある罪深い人間の集まりです。脆く、罪の残る欠け多き者の群れです。しかし、キリストはその罪深い人の群れである教会を熟知して愛してくださった。偉いから、強いから愛したのではなく、愚かで、弱く、罪あることを知り抜いて愛された。弱く罪ある者たちのために、御自身を捧げられたのです。

 夫は妻を完全無欠な者として愛するのではない。人が多くの欠けを持ち、脆い存在であるように妻も欠けを持つ脆い存在なのです。それを認めて受け入れ愛する。「弱いものだとわきまえる」とは、そういうことです。裁き合い、罵り合うのではなく、自らの弱さと醜さをキリストによって覆われ赦された者として、同じ弱さを持つ妻を愛し、妻と共に住むのです。

 次に「命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい」と記す。妻に対する愛と尊敬を持つことの動機として、妻が命の恵みを共に受け継ぐ者だと語る。「命の恵み」とは、肉体の命でなく永遠の命のことです。妻が夫と同じ信仰者であれば、信仰のゆえに兄弟姉妹です。信者であれば改めて命の恵みを共にいただくなどと言う必要はない。この「妻」は必ずしも信者ではない。妻に対して「御言葉に従わない夫」、未信者の夫への服従を命じたように、この「妻」も必ずしも信徒ではない。妻が信者なら神の国の相続人は当たり前のこと。ペトロはここで大事なことを語りたいのです。

 家庭の持つ重大な意味を語りたいのです。神は御心のままに、一人の男と一人の女を導いて1つの家庭を造らせなさいます。神はその家庭を丸ごと恵みの相続者とされるのです。ここにキリスト者である者の特別な意味がある。今、キリストを信じていない妻であっても、今なおキリストを信じていない夫であっても、その人たちに対して同じ命の恵みが提供されている。パウロはコリント第一の手紙7章14節で記します。「信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。…」。片方が信者であれば、その配偶者も子供も聖なる者だと語る。家庭の不思議、神秘です。夫と妻の結びつきは、地上の肉体的な結合よりもはるかに深いものがある。キリストにあって夫と妻は命の恵みの共同の相続人なのです。

 けれど、結婚したら、配偶者の片方がクリスチャンであったら、相手は何にもしないで、自動的に聖なる者となると考えていいわけではない。夫婦が「共に命の恵みにあずかる」ために、祈りと苦しみが必要なのです。片方が信者である場合だけでなく、両方信者であっても、夫婦の間には多くの祈りの課題と苦しみを抱える。この祈りこそ、夫婦を結ぶ帯なのです。神はそれらの祈りと苦しみとを見て応えてくださるのです。キリストの苦しみをもう一度、自分の生涯でなぞる苦しみを経験することもある。その中で、夫と妻は共に神の国を継ぐ者となっていく。「命の恵みを共に受け継ぐ者として」獲得するのです。神によって変えていただくのです。

 最後に、ペトロは「そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」と記す。「祈りが妨げられない」とは、信仰生活が全うされることです。実はパウロは結婚することも、あるいは独身でいることも、「余念なく主に仕えるためである」と記している。ペトロも同じことを語っている。夫と妻の共同生活の目的は、祈りをするためにあると言ってよい。この場合の「祈り」は神に仕えて生きる生活という意味です。神の形として造られた人間は、子を産み育てるということだけで人生は終わらない。神との交わり、神と隣人に仕えて生きることです。家庭が整えられ、夫と妻の関係が整えられるのは、この祈りの生活が整えられるためなのです。