2017年6月18日礼拝説教 「キリストの苦難の模範 」

2017年6月18日

聖書=Ⅰペトロの手紙2章21-25節

キリストの苦難の模範

 

 この個所は「召使いたち」という呼びかけから始まる続きです。直接的に呼びかけられているのは奴隷・召使いです。ペトロは、奴隷・召使いに「心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」と勧めます。しかし、このペトロの勧めは奴隷・召使いへの勧めを遙かに超えていきます。奴隷だけでなく「不当な苦しみを受ける者たち」、つまりすべての信仰者へと視野を広げている。

 聖書を読む私たちにキリストの苦難を示して、「苦痛を耐えるなら、それは神の御心に適うことです」と話を進めて行きます。ペトロの記述の方向が大きく展開して、苦難を受ける者への勧めとなっていくのです。

  ペトロは、「あなたがたが召されたのはこのためです」と語る。「苦難への召命」です。キリスト者の召しは何よりも苦難への召しです。私たちは、不当な苦しみを受けて、耐え忍ぶことへと召されている。この苦難への召しこそキリスト者の栄光です。それはキリストの苦しみにあずかることだからです。キリストと苦しみを分かち合うこと。キリストの苦難をシェアーする。信仰のゆえに受ける苦難は不当なものですが、それを忍耐して受け止めることは、この世の旅人、仮住まいの者としての召しなのです。

 ペトロは苦難への召命を語るために第1に、模範としての主イエスを描きます。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」と。「模範」、「フポグラモン」は「下に書く」という語で、下敷きにすると言っていい。主イエスの苦難の生涯を下敷きにして、その上に私たちの人生をなぞっていくのです。ペトロは、ここにいわれなき苦しみを受けた方がおられると、主イエスを指し示して、このお方が私たちの人生の下敷きであると記しているのです。

 ペトロは、主イエスの最初からの弟子として3年半、生活を共にした。人間的な言い方ですが、イエスの表も裏も知り抜いていた。そのペトロが「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」と証しする。これらの言葉は、主イエスの十字架の苦難を示す言葉です。残虐な、冷酷な仕打ち、罵り、辱め、平手打ち、むち打ち、茨の冠、そして十字架の死の苦しみをも静かに耐え忍んで受けられた。この主イエスこそ、不当な苦しみを受けた時の私たちの模範だ。このお方を下敷きにして生きるのだ。このために召されているのです。

 第2にペトロは、このキリストの苦難には意味があると語ります。キリストの苦難と忍耐によって、私たちは今、罪が赦され、生かされていると語っている。実はペトロは、イザヤ書53章に記されている苦難を受けるしもべの姿がイエスにおいて実現したのだと語っている。苦難のしもべによって贖いが実現し、私たちは生かされた。これが主イエスの受けられた苦難の意味です。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」は、イザヤ書53章12節からの引用で「彼は多くの人の過ちを担い」と記されている。私たちの罪を償うために、罪のないイエスが私たち・罪人の罪を担い、支払いをしてくださった。

 イザヤ書53章5節「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」。これを受け「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」とペトロは記す。主イエスは深い傷を受けられた。「傷」は単数で記されています。主イエスは数限りなくむち打たれ、殴られ、こづかれ、釘づけられた。体は傷だらけであった。それら無数の傷を、ペトロは単数で「傷」と表現している。主イエスの体が「傷」そのものとなった。その傷によって、私たちがいやされたのだと、ペトロは記している。

 主イエスが十字架の苦しみを耐え抜かれた目的は「わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです」。「罪に対して死ぬ」とは、罪と絶縁し、罪の支配から離れることです。悔い改めです。罪の中で生きることを止めて方向転換する。それを積極的に言えば「義によって生きる」ことです。罪を赦されて、神の義、神との正しい関係の中で生きることです。キリストに結ばれて、キリストにあって神との交わりに生きることです。このために、主イエスは苦しまれたのです。

 第3に、ペトロはもう一度、「召し」に戻ります。私たちの苦難にも意味がある。キリストの苦難にあずかることです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。ペトロには悲しい記憶がありました。主イエスが裁かれていた時、「彼を知らない」と3度も否定した。この彼の失敗はつらい体験でしたが、十字架の赦しの絶大な価値へと目を開かせたのです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが」と言います。これは他人事ではなく自身さまよった経験があった。ペトロだけでなく、私たちも皆、羊のようにさまよった。けれど、このような私たちのために主イエスの十字架がある。私たちのために十字架を担ってくださったお方が、その贖いによって、私たちの魂の牧者となり、監督者になってくださった。

 キリストの弟子となっても、彷徨い、失敗したペトロを、繰り返し導き返して、元に立ち戻らせてくださいました。「今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。ペトロの心からの感謝の言葉です。私たちはこのお方の元に立ち帰って、キリストと共に苦難を担って生きるのです。これが私たちの召しなのです。ここで私たちの苦難にも意味が出てくるのです。私たちの受ける苦しみは、この主のためのものです。主イエスが、私たちの牧者として、私たちの監督者として、私たちの苦難を受け止めてくださいます。私たちの苦難は、どのような苦難であってもキリストの苦難なのです。このことを覚えるところで、私たちも自分の十字架を担って主のみ足の跡に従って歩んでいくことが出来るのです。