2017年5月14日礼拝説教 「自由な人として生きる」

2017年5月14日

聖書=Ⅰペトロの手紙2章13-17節

自由な人として生きる

 

 今朝は「キリスト者の自由」についてお話しします。「キリスト者の自由」を語る時、紹介しておかねばならない本があります。宗教改革者ルターの書いた同じ名前の本「キリスト者の自由」です。教会の皆さんが是非一度、読んでいただきたい古典的な本です。ルターの「キリスト者の自由」には2つの大きな命題があります。1つは「キリスト者は、すべてのものの上に立つ自由な主人であって、だれにも従属していない」。2つは「キリスト者は、すべてのものに奉仕するしもべであって、だれにも従属している」です。この2つは、キリスト者の自由を語る時、最も大切な事柄です。

 私たちは天国の民です。しかし、異教徒・外国人の圧倒的に多いこの社会にあって、神の民としての責任と使命を自覚して生きるのです。その最初の大きな課題が社会・国家との関わり方です。ペトロは「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい」と勧めます。「従いなさい」。これが、この社会の中で生きるための勧めの基調・基本です。

 国の制度と為政者に従う理由の1つが、「主のため」「主のゆえに」です。イエス・キリストご自身も、この地上を歩まれた時、カヤパやヘロデ、総督ピラトに服従された。この主イエスに従うのです。ペトロは、苦しみを受けられた主イエスを示して、主に従うことを命じます。しかし、主のために従うことは決して無条件的、絶対的な服従ではない。「主のため」「主のゆえに」従うのであって、神とキリストに背くこと、信仰の良心に反することを、この世の権威が命じる時には、それに従うことはできない。私たちがこの世の権威に従うのはキリストに従うためであることをはっきりさせておくことです。ここから抵抗権や不服従が生じてくるのです。

 この世の権威、「すべて人間の立てた制度」に従う、もう1つの理由が、「わたしたちが自由な人」だからです。ペトロは「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」と命じます。「自由な人として生きること」が、「すべて人間の立てた制度」に従う理由なのです。不思議に思える。なぜ、自由人として生きることが、従うことなのか。矛盾するではないかと思う。

 普通には「自由な人」とは、だれにも従わない人のことです。「天上天下、唯我独尊」が自由人だと考えるのではないか。しかし、聖書では従順になることのできる人です。ですから、ペトロは「神の僕として行動しなさい」と語る。自由人であることと、神の僕であることとは矛盾することではなく、同時に成立する。神は人を神の形・人格を持つ自由人として造られた。しかし、神はその人を「この木の実を取って食べてはならない」という1つの基準、規範の下に置かれた。人が自由な人格として生きるのは、神の戒め、神の規範の下に生きることによってなのです。神の規範、神の戒めの下で生きることが自由に生きることでした。ところが食べるによく、目に美しいと自分の価値判断によって手前勝手に動いた時に、人は罪を犯し堕落し、決定的に不自由になった。人の自由はこういう不思議なものです。

 人間は、アダムの堕落によってアダムと共に罪を犯し、罪人になりました。しかし、私たちはキリストを信じ、キリストの贖いによって神のものとされました。キリストの救いを得たことは自由を回復したのです。私たちはキリストに在って自由を回復された。ペトロが「自由な人として生活しなさい」と命じることは、救いの恵みの中にある者として生きることです。神を信じるとは、神の規範の下に生きることです。

 そこでキリストに在る自由な人間とは、実は神のしもべ、神の奴隷になった人なのだということです。キリスト者の自由は、自分勝手に隣人を傷つけたり、他の人に害を及ぼすような自由ではない。それは自由ではなく罪の奴隷です。本当の自由は、神に従う自由、善を行う自由、神と隣人を愛する愛の義務を果たす自由なのです。神の僕の自由です。神に従い、神に仕えるところに生まれる自由です。このところで隣人への愛の義務を果たすこととして、この世の権威への服従と、神に従って生きることとが成立するのです。キリスト者のこの世の制度・為政者への服従は、隣人愛に基づくのです。そして、その故に、この世の権威者が神の御心に反することを行うように命じる時にはいつでも、「神に従うよりは人に従う方が良いことかどうか」と言って、神に従った使徒たちの生き方に従うのです。

 最後に、ペトロは「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」と勧めます。これが自由にされた人の実際になすべきこと、具体的になすべきことです。自由人として生きることの適用です。「すべての人を敬いなさい」。宗教改革者カルヴァンは「この言葉をだれ一人忘れてはならない。これは総括的な命令だからである」と記します。「すべての人を敬え」ですから、どんな人でもどんな立場の人でも、人種・民族・階層・性別などによらず、皆、同じように敬うのです。「敬う」とは、どんな立場や身分に置かれている人であっても大切にし、大切に取り扱うことです。人を敬う気持ちがないところでは、人の造った制度に従うことはない。人を敬うことは人の造った制度に従うことなのです。

 さらに「兄弟を愛し、神を畏れ」と記します。この「兄弟を愛し」とは、教会の兄弟姉妹のことです。つまり、神を畏れる礼拝と教会の兄弟姉妹たちを愛する教会生活を忠実に果たしていくことです。神を畏れて、教会の交わりをすることがなければ、すべての人を敬い、さらには私たちを苦しめたり、迫害さえも起こしかねない皇帝や国家の権力者を敬うことなどはできない。すべての人を敬うことと、皇帝を敬うことの真ん中に、神を畏れる礼拝と信徒の交わりが置かれている。神を畏れて礼拝をする。そして信徒の交わりを大切にする。ここで、キリスト者は本当に自由に生きることができるのです。そのような自由な人こそ、すべての人を敬い、人の立てた制度にも従って、証しの生活をすることができる人なのです。