2017年4月30日
聖書=Ⅰペトロの手紙2章11-12節
旅人としてのキリスト者
キリスト者の生き方を旅人、仮住まい、と見ることは聖書の中で一貫しています。信仰の父アブラハムも旅人、寄留者でした。しかし、人生を「旅」と見るのは、キリスト教独自のものとは言えない。日本でも西行法師や芭蕉など多くの人が人生を旅になぞらえて詩歌を詠んでいます。これらの人に共通するのは、旅の中に仏教的な諦観を持っていることです。
聖書が語る「旅人としての在り方」は、日本的・仏教的な諦観を含んだ旅人理解と違います。この世界に対して責任的な生き方です。ペトロはこの後から3章にかけて、キリストを信じて生きる者の生活について多くの事柄を取り上げます。国家や社会生活、夫婦の在り方、異教社会の中でどのように振る舞い、どのように生活して行くかについて細かい勧めをしています。仏教的諦観と全く異なる。「旅人」という言葉で、キリスト者がこの世界で、どのように生きていくべきかを総合的に語っているのです。
「勧める」とは「慰める」とも訳せる言葉です。ペトロは、律法学者のように無味乾燥な教条的な言葉は語らない。厳しいことを語る場合であっても、キリストにある慰めの言葉として語っている。私たちはお互いキリストを信じている。キリストの慰めの中に生かされている。だから、こう生きようではないかと語るのです。キリストによって救われ、慰めを受けた者同士としての生き方の勧めなのです。
ペトロは勧めます。「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、…」と記します。「旅人」を「巡礼者」と訳す人が多くいます。ジョン・バンヤンに「天路歴程」という書物があります。天を目差す旅路を行く人です。信仰者はこの世に生きている。しかし、この世だけを基準にして生きるのではない。この世の流れに従って生きるのではない。天に故郷があることを知り、天の故郷をめざして、そこに帰り着くことを目当てにしている歩みです。その限りにおいて、私たちはこの世では「仮住まい」です。「寄留者」です。私たちの目差す故郷は天にあるのです。
この旅人としての視点から2つのことが勧められます。ペトロはまず第1に、「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」と勧めます。この「肉の欲」とは、自然な欲望のことではありません。「肉欲」とは違う。例えば、食欲、あるいは性欲などと理解すると困ったことになります。食欲を避けたら、餓死してしまう。性欲を避けたら、子も産めません。3章で夫婦のことが語られますが、性欲を避けなさいなどとは一言も語られていません。キリスト教は人間本来の欲望を否定するものではありません。
「魂に戦いを挑む肉の欲」とは、人を罪に導く罪の根です。自己中心的な願望です。キリストを信じていても、なお残る罪の思い、神の霊に逆らうものが肉なのです。神に逆らう心の思いが肉の欲です。私たちの中に残る罪の思いに目を留めなければならない。「避けなさい」は、ある翻訳では「肉の欲に支配されるな」と命令文で訳している。私たちはキリストに支配されている。キリストの恵みの支配を押しのけるようにして入り込んでくるのが肉の欲・罪の思いで、私たちの信仰の戦いはここにあります。この世の価値観、この世の生き方に執着するならば身を滅ぼす以外ない。人は病気でも、食べ物でも神経質なほど注意します。しかし、魂の危険に対しては鈍感です。この危険に対して真剣に戦わねばならないのです。
第2に、ペトロは「また、異教徒の間で立派に生活しなさい」と勧めます。「異教徒」は、むしろ「外国人」と訳すべきです。旅人であれば周囲はすべて外国人です。その人たちは、キリストを信じた者が、どういう生活をしているか、よく観察している。そこで立派に生活しなければならない。「立派に生活」、「立派な行い」とは、ほめられたり、人に喜ばれる意味での立派さではない。「立派な」と訳された語は「美しい、ビューティフル」とも訳されます。優雅な生活ではない。キリストを信じている者、天に国籍を持つ者としてのふさわしい生活の姿です。信仰と釣り合いのとれた首尾一貫した生活の在り方、生き方が「立派な」と言われているのです。
信仰と生活が分離するのではなく、信仰者らしい一貫した生き方をすることです。周囲の人はキリスト者を注目しています。キリストを信じていると言っても、この世の人と同じ生き方をしているのでは、「ああ、あれは上っ面だ」と感じ取ってしまう。キリスト者が信仰者として一貫した生活をする必要があるのは、周囲の人がつまずかせないためだけではなく、もっと積極的な意味がある。証しです。「そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」と記されていることのためなのです。
ペトロは周囲の非難、中傷に対して、信仰と首尾一貫した生活によって、それらの非難や中傷が根拠のないものであることを証しなさいと勧めている。主イエスはマタイ福音書5章16節で「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」と言われました。私たちの生活を見て、周囲の隣人たちが神を崇めるようになると言われている。
ペトロは「訪れの日に神をあがめるようになります」と記します。この「訪れの日」を、ある人は再臨の日、終末と理解します。この「訪れの日」とは、今のことです。神は今、人を訪れてくださいます。神が訪ねて来てくださいます。神が、人を訪れてくださるとは聖霊の働きです。神が人の心に働いてくださる時です。その時に、今までキリスト者を非難し中傷していた人が、キリスト者の生活の証しを受け止めて、神に立ち帰り、神に栄光を帰するようになるのです。信仰者の生活の証しが、神に用いられるところとなって、神を信じなかった人が神に立ち帰り、神を崇めるようになる。そのために、用いられる器とされるのです。このことを覚えて、神の国を目指す旅人としての歩みを揺るぎなくしてまいりましょう。