2017年4月23日礼拝説教 「 選ばれた民 」

2017年4月23日

聖書=Ⅰペトロの手紙2章9-10節

選ばれた民

 

 キリストに結ばれた神の民が、4つの呼び名をもって描き出されています。「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」。いずれも元は、エジプトから救い出された神の民、イスラエルに与えられた光栄ある呼び名です。そして今、これらの呼び名が私たちキリスト者の集まり、キリストの教会に振り替えられているのです。「あなたがた」とは、新約のキリストの教会です。

 最初の「あなたがたは選ばれた民」に視点を絞ってお話しします。「祭司の民」、「聖なる国民」、「神のものとなった民」も、この一点に集約されているからです。ここから、神の選びの恵みについてお話ししたい。牧師によって、あるいは教派によって、神の選びの恵みをほとんど語らないことも起こっています。しかし、恵みの選びは聖書の大切なメッセージです。

 旧約のイスラエルは、神に選ばれた民を誇りとしてきた。イスラエルには誇りうるものはあまりなかったと言っていい。弱小民族でした。北のアッシリアやバビロニア、南のエジプトという巨大な国に挟まれて圧迫を感じていた。アブラハムを先祖とするが、彼は流浪の旅人でしかなかった。申命記26章5節で、歴史を回顧して「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました」と告白している。カナンの地も昔から自分たちのものではありません。

 イスラエルが誇ることの出来たのは「神の選び」だけでした。申命記7章6-7節「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」。神がこの貧弱な民を選んでくださった。そこから自分たちは神の選びの民であるということが誇りとなりました。

 この「選びの民」が、新約の教会に引き継がれました。その内実を語るのが10節「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」。私たちは異邦人、異教徒と呼ばれていた。神を知らない民、神から遠く離れていて滅びるべき者であった。ところが今、神の憐れみを受けている。これがペトロの伝えたいことです。選びにおける第1は神の愛と主権です。神のご意志です。神が、あなたを、あなたがたを、生まれる先から、永遠の御心のうちに愛して選んでくださった。ここに神の主権的な意志がある。

 神が先ず、選びの民の頭としてキリストを選ばれた。このキリストに結ばれた者が選びの民なのです。神の選びは抽象的なものではなく、キリストへの選びです。私たちが生まれるよりも先、神の永遠の御心のうちに、キリストの救いへと選び出してくださった。これが聖書が私たちに告げることです。神の一方的な恩寵です。神に愛され選ばれてキリストに結ばれた。ここからすべてが始まります。そして、それぞれの長い人生の中で、時至って、聖霊が与えられ、信仰を与えられ、具体的にキリストに結ばれ、救いの恵みに導かれ、キリストのもの、神の民とされたのです。

 神の選びの恵みが語られているのは、神に感謝するためです。イエス・キリストが来られた。キリストが来られたところで逆転が起こった。イスラエルの民がキリストを捨てたことによって、旧約の選びの民が捨てられた。このことを、ペトロは「捨てられた石」でしっかりと語っているのです。イスラエルの民がイエスを捨てたことによって、逆に神はイスラエルの民を捨てて、新しい神の民を選び出したのだと語っているのです。

 キリストにあって、異邦人であったあなたがたは、今や神の愛を受けている。神の恵みの選びの中にあると語るのです。滅びる以外になかったあなたがたも、今や神の愛と恵みの選びを受けている。神が新しい神の民を選び出してくださった。これが、ペトロが語りたいことです。このゆえに、私たちは神に感謝する以外ないのです。

 選びは主権的な神の恵みです。私たちを愛して選び出す。救いへの選びです。生まれるよりも遙か前、永遠の御心のうちにです。この選びは、人種や国籍にも関わりなく、男女や貧富にも、階層にも関わりなく、本来滅びるべき私たち異邦人、罪人を憐れみ、愛して、キリストへと結んでくださる神の主権的な働きです。それによって、私たちに時至って、聖霊が与えられ信仰に導かれて、文字通りキリストの恵みにあずかるのです。そして、キリストに結ばれて1つの民となった。これがキリストの教会です。

 これは、私たちを誇らせるためではありません。神の選びの恵みは、救いへの選びであると共に、実はしもべとしての使命への選びなのです。「王の系統を引く祭司」とは問題のある訳し方です。これは出エジプト記6章6節の引用です。「あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国…となる」。「祭司の王国」です。神に選ばれたイスラエルの民全体が本来は祭司です。奉仕者です。それが出エジプト記6章6節が語る「祭司の王国」ということです。イスラエルの選びも仕え人、しもべとしての選び出しでした。

 神が、アブラハムとイスラエルの民を選び出したのは、彼らを誇らせるためではなく、地上のすべての人の救いのための奉仕者、仕え人として選ばれたのです。この点を見失うところで、神の選びだけが強調され、鼻持ちならないものとなります。これは新約の選びの民である私たちについてもまったく同じことが言えます。神が今、私たちを救いの恵みの中に選び出しておられるのは、目的をもっての選びです。この世界へ、世界のすべての人たちに、福音を宣べ伝えるためなのです。私たちを通して、この世界の人々が救われるための道具としての選び出しです。私たちは、とりなしをする祭司として、み言葉を伝える伝道者として、神と世界に仕えるしもべとして選び出されているのです。私たちの召しがここにあります。