2017年4月16日礼拝説教 「 わたしは主を見ました 」

2017年4月16日

イースター礼拝 聖書=ヨハネ福音書20章11-18節

わたしは主を見ました

 

 今日はイースターの礼拝です。キリスト教は、主イエス・キリストの十字架と復活を信じるところに救いがあると信じる信仰です。使徒パウロは、もしキリストが復活しなかったならば、十字架の信仰は空しくなると言いました。キリストの復活を信じる。これがキリスト教信仰の中心点です。キリストの体の復活を信じる信仰がキリスト教信仰の鍵になります。キリストの復活は、キリストお一人の復活ではなく、キリストに結ばれている私たち信徒の復活の先駆けであり、保証でもあるからです。

 この復活信仰の最初に立っているのが一人の女性、マグダラのマリアです。マグダラのマリアは「墓の外に立って泣いていた」と記されています。男の弟子たちは、主イエスの遺体を葬った墓が空であることを確認するとすぐに「家に帰って行きました」。遺体が奪われたと考え、これ以上の危険を冒さないためです。しかし、マグダラのマリアは墓から立ち去ることが出来ませんでした。愛する主を失って立ちつくす以外なかった。私たちの人生でも立ちつくすような時があります。途方に暮れ、呆然として立ちつくす。そのような時に、主イエスの方から言葉をかけてくださいます。これが第1点です。

 彼女は一生懸命に、主をさがし求めている。ところが、その求めているのは屍となった体のことです。イエスの遺体が盗まれてどこかに「置いてある」と思い込んでいる。イエスを物体として考えている。人は一生懸命な時に、このような思い込みをしてしまう。主イエスが語りかけても、すぐ後ろに立っていてくださっても、気が付かないのです。

 しかし、主イエスは泣いて立ちつくす彼女をそのままに放っておかれません。彼女の名を呼ばれました。「マリア」と。自分の名が呼ばれ、彼女は振り返ります。そこに、活ける主イエスを見た。「ラボニ」、「わたしの先生」。これは素直なマリアの喜びの言葉です。この「マリア」、「ラボニ」という呼びかけと応答とは、これまでにも何回も呼び交わされていた言葉ではなかったかと思う。遺体ではない。彼女は生ける主イエスと出会ったのです。十字架につけられて死んで葬られたイエス。彼女もその死と葬りとを確認している。しかし、今、そのお方がかつてと同じように「マリア」と呼んでくださった。生ける主イエス、よみがえられた主イエスを見たのです。主にお目にかかったのです。

 第2点は、主は私たちにもこのように呼びかけてくださることです。主イエスは私たちの羊飼いです。羊飼いは羊の名を知って導かれます。羊飼いである主イエスが私たちの名前を呼んでくださいます。そこで復活の主を信じることが出来るのです。今日、聖書を読み、説教を聞くことは、私たちに対する主イエスの呼びかけの言葉を聞くことです。本日、洗礼を受けられた兄弟は長い間、忠実に礼拝に出席し、説教を聞き続けてくださいました。神の呼びかけに聞いてくださっていたのです。

 主イエスの復活の出来事は神の奇跡です。この出来事を受け止めるのは、主イエスからの語りかけの言葉を聞くことにあります。礼拝の中で語りかける主イエスのお言葉を聞くところに復活の主を信じる道が開かれるのです。主イエスは、私たちの傍らで呼びかけてくださいます。「マリアよ」と呼びかけられたように、私たち一人一人に語りかけてくださるのです。そのみ声を聞いて、生ける主を信じるのです。

 第3は、復活の主にお目にかかったマリアに新しい使命が与えられたことです。「イエスは言われた。『わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから』」。なにか、主イエスの体に触れられては困ることでもあったのでしょうか。この後、トマスに対しては「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と言われています。

 この言葉は、マリアの新しい生き方と使命を示す言葉です。今は至急を要する大事な時です。主イエスは、マリアが今なすべきことは、主にすがりついて大事な時を無駄に過ごすのではない。自分の感情を満足させているべき時ではないと言われたのです。ですから、主は続けて言われました。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。復活の主はマリアに、あなたには大事な使命がある。あなたには緊急になすべき大切なことがある、と言われたのです。それは今、彼女の見た主の復活を伝えることです。

 ここからマグダラのマリアは墓の前で泣く女から、復活の証人へと大きく飛躍しました。彼女は復活の主を確かに見た。ここから彼女の人生は、主イエスの復活を証しする新しい人生に変わった。マグダラのマリアは男の弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げた。非常に短い言葉です。しかし、確かな証言です。生ける主に出会った。主は生きておられる、と主から命じられたことを伝えたのです。

 彼女は多くの罪を主によって赦していただいた女です。墓の前で泣き、立ちつくす以外なかった弱い女です。しかし今、その彼女が男の弟子たちのところに喜ばしい復活の福音を伝える最初の使者、最初の伝道者とされているのです。当時、女性は公的な場で証言することが認められていませんでした。その中で、キリストは彼女に主の復活を証言する最も大切な使命を委ねたのです。彼女はこの後、自分の罪を赦してくださった主の恵み、自分に現れてくださった主イエスの復活の証言を生涯にわたって多くの人々に伝え続けた。私たちも主イエスからの呼びかけの声を聞いた者として、この復活の証人に連なっていくのです。