2017年4月2日
聖書=Ⅰペトロの手紙2章5-8節
聖なる祭司
今年は宗教改革500周年です。宗教改革の大きな主張点は3つあると言われます。1つは「聖書のみ」、2つは「信仰義認」、3つは「万人祭司」です。今朝は「万人祭司」に関わることをお話しすることとなります。
この2章には、キリストとキリスト者についての大切なイメージが記されています。ペトロはこれらイメージを用いて分かりやすくキリスト者の在り方と使命を、キリストとの関わりの中で語ろうとしています。「生きた石」に続いて、「聖なる祭司」というイメージです。祭司についても、初代教会の人はよく知っていた。「祭司」とは、どういう人か、どういう務めを果たす人かよく分かっていた。ペトロは、先ず「この主のもとに来なさい」と勧めます。キリストを信じる信仰への勧めです。ここから始まります。キリストを信じなさい。キリストを信じて、キリストに結ばれなさい。これが基本です。信じて罪が赦されます。義とされ神の子とされます。救いの恵みをいただく。救いの恵みの中に、今、私たちはいるのです。
しかし、救われたところで終わらない。救われたところから新しい出発をする。ペトロは「そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」と記す。「あなたがたは聖なる祭司となる」。これが万人祭司です。キリストのもとに来て、キリストを信じて生きる人すべてが「聖なる祭司」なのです。祭司とは、偉い人ではなく仕える人です。私たちは神によって祭司として選ばれたのです。
「聖なる」とは、神に仕える者として取り分けられた者ということです。他の者に優越したのではなく、神のご用のために取り分けられたのです。イエス・キリストが大祭司です。キリストに結ばれて私たちも祭司となった。信仰生活で大切なことは自分が祭司になったことを自覚することです。主に連なる者はすべて祭司の働きをする。まさに万人祭司です。
祭司は、第1に神に仕える者です。第2に「仲立ちをする者」、仲保者です。ペトロは、神の救いにあずかったすべての信徒がこのような祭司となると記している。祭司のなすべきことは、いけにえを献げることです。「聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げ」ることです。信徒は霊的ないけにえを献げる。では、神に喜ばれる霊的ないけにえとは何を指しているのか。
第1は神を賛美することです。ヘブライ書13章15節に「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」と記されている。祭司の最も大切な献げものは賛美です。神を賛美することが、どれだけの意味があるのかと思うかもしれません。もし、そのように思う場合は、神を礼拝することの意味が分かっていないのです。礼拝は、あらゆる仕方で神をほめたたえることです。その中で、私たちは声をもって神を賛美する。礼拝における賛美はただ歌を歌うのではない。人に聴かせるための歌でしたら上手下手が問われるでしょう。しかし、神に献げるのですから真心をもって歌えばよいのです。どんなに拙い賛美であっても心からの賛美であれば、喜んで受け止めてくださいます。
次に、私たちの献げるものは私たち自身です。旧約時代の祭司は動物犠牲を献げました。しかし、パウロはローマ書12章1節で「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」と記す。私たち自身を献げると言っても、私たちはどれだけ神に献げているか。礼拝を守っていても、それで必ずしも全生活を献げていることにはなりません。主イエスがレプトン銅貨2枚を献げた貧しいやもめの献金をご覧になって言われたことを思い起こしたい。僅かな献げものであった。しかし、それが彼女の持っていた生活の糧のすべてであった。私たちは祭司として全生活を神に献げる供え物としてまいりたい。
第3に、祭司の献げるのは祈りです。旧約時代、神殿において祭司は聖所で香をたく務めがあった。香をたくことはイスラエルの民の祈りを表すものでした。香の香りと煙が立ち上る姿が、イスラエルの民の祈りが神に上り、神に聞き届けられることを現していると理解した。祈りは勿論、自らの必要、霊的・物質的な必要の一切を神に求めることが命じられています。しかし、祭司の最も大切な働きは仲保の働きです。隣人のために、隣人を代表して神の前に立つのです。とりなしをすることです。
祭司は、まだ信仰を持っていない人のために、その代わりに神の前に立つのです。私たちの礼拝は、私たち自身が神を礼拝し賛美する礼拝ですが、実はまだ神を知らない人たちに代わって神に執り成しをするための礼拝でもある。私たちの礼拝は、祭司の働き、祭司の務めです。まだ神を知らない人たちをも代表して神に献げている礼拝なのだと言っていい。
礼拝の中で、公同の祈り、牧会の祈りと言われるものがあります。その中で必ず祈られることは、まだ神を知らない人たち、未信の人たちが神を知るに至るようにと祈ることです。政治をする人たちのために祈ります。自分の群れのためだけでなく、すべての人の救いのために祈る。換言すれば、キリストの主権がすべてに及ぶことを祈るのです。これは決して礼拝の祈りの中だけでのことではなく、私たちの毎日の祈りにおいても献げられる祈りの課題なのです。すべての隣人が神の愛を知るようにと祈る。
このような祈りが伝道へと繋がります。伝道の奉仕は万人祭司としての祈りから始まる。隣人への伝道は、実際に具体的に何をするという前に、礼拝の祈り、執り成しの祈りから始まります。信徒の毎日のとりなしの祈りから始まるのです。伝道がすべての信徒のわざであるとは、祈りから始まるということです。教会の交わりの中に組み込まれた者は祈りによって隣人の救いのために祈ります。祈りを通して隣人に代わって神の前に立つ。これが執り成しです。このとりなしによって実際の伝道が始まるのです。