2017年2月19日礼拝説教 「あなたがたのために現れたキリスト 」

2017年2月19日

聖書=Ⅰペトロの手紙1章20-21節

あなたがたのために現れたキリスト

 

 この箇所は贖いをもたらしたキリストのすばらしさ、キリストの卓越性を語っています。当時の賛美歌、キリスト賛歌を下敷きにして救い主イエス・キリストはこんなにすばらしいお方なのだと物語っているのです。

 

 主イエスは「聖書はわたしについて証しをするものだ」(ヨハネ福音書5:39)と言われました。旧約聖書は「キリストを証しする書物」ということです。では、旧約のどこにイエス・キリストのことが記されているのか。これ実はたいへん難しい問題です。

 

 ペトロは「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていました」と記します。天地創造の前からキリストが知られていた、と言う。では、天地創造の前から知ることの出来るお方は、いったい誰でしょう。神だけです。被造物である人間が、天地の造られる前にキリストを知るわけはありません。キリストは、天地の造られる前から、神に知られていたお方であることです。これが第1点です。神のみに知られているキリストです。ここで語られていることは、後にヨハネ福音書で記されていくロゴスなのです。父なる神と区別されつつ、同じ神であるお方。父なる神と共に天地の創造に関わる神なるロゴスとしてのキリストです。

 

 ペトロは、ここでロゴス・キリスト論は展開していません。しかし、天地創造の前からおられるキリストを語るのです。永遠の内に父なる神と共におられるキリストを記している。私たちが知るのは、ベツレヘムに生まれ、ナザレに育ったイエス・キリストです。しかしペトロは、キリストはこの世界、天地が造られる前からおられたお方であると語っている。 私たち人間は生まれて死ぬはかない生涯です。しかし、キリストは世界の造られる前から、神に知られていたお方、神と共におられたお方である。キリストは神である。父なる神と共に永遠からおられた造り主なのだということです。永遠のキリストが歌われているのです。

 

 そして、ペトロは記します。「この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました」。これが第2点です。ここで示されている「時に関わる言葉」に注意していただきたい。「この終わりの時代」です。この終わりの時は、私たちが普通な語る将来の世の終わりという意味での終末ではありません。キリストが現れてくださった時が「終わりの時代」と言われている。主イエスが処女マリアから生まれました。イエス・キリストの誕生です。この主イエスの誕生が終わりの時なのだという理解です。

 

 天地の造られる前から父なる神と共におられたキリストは、父なる神と共に天地を造られ、人をも造りました。ところが神の形として造られた人は、まもなく罪を犯し滅びるべき存在になった。人の堕落です。ここから神の御子がキリスト・救い主として立ってくださったのです。父なる神と共に罪人の救いをご計画してくださいました。創世記3章15節に、罪を犯したアダムとエバに最初の福音が語られます。「女の末の勝利」です。その神の傍らにキリストはすでにおられたのです。キリストは、天地創造の最初からおられるお方というだけでなく、堕落した人類に対して語られた最初の福音の言葉の傍らに臨在しておられたお方なのです。

 

 キリストは、罪人の救いの計画を定めて1つ1つ実現してこられたのです。旧約時代の意味は何か。キリストが現れる終わりの時の準備の時代なのです。キリストがこの歴史の中に現れてくださるための準備の時、備えの時が旧約の歴史です。旧約の歴史はキリスト到来の準備の時であった。旧約聖書の全体、旧約の歴史全体がキリストを指し示している。アブラハムたち族長の歴史も、出エジプトの出来事と律法、幕屋の儀式と犠牲も、イスラエルの歴史すべてがキリストを指し示しているのです。

 

 さらに、ペトロはこう記します。「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています」。これが第3点です。終わりの時が、神がキリストを死者の中からよみがえらせ、天に挙げることによって完成されたのです。キリストの死者からの復活によって神の救いの計画が完了した。贖いの御業は十字架のキリストを「死者の中から復活させて栄光をお与えになった」ところで完了するのです。主イエスの十字架の死はまことに惨めなものでした。同胞からも、弟子たちからも見捨てられた。神からも見捨てられた。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、神の見捨てを体験した。十字架上での肉体的な惨めさだけではない。最も深い惨めさは神の見捨てです。しかし、父なる神はこのキリストを「復活させて栄光をお与えになった」のです。惨めさを貫いて復活の栄光に入られた。これがキリストが示してくださった贖いの道なのです。救済の完成です。

 

 先日、遠藤周作の原作による「沈黙」という映画が上映されました。ご覧になった方がおられるでしょう。ここには深い問いがあります。「神は、この人たち、そして私たちを見捨てておられるのか」という問いです。惨めな殉教の中で、神は沈黙しておられるのか。彼らを見捨てているのか。ペトロは語ります。「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています」と。キリストは惨めさを貫いて復活の栄光を受けられた。もし、復活がなかったら、キリストの救済、贖いは未完成です。惨めさの回復はない。しかし、復活によって救いは完成し、救い主としての御業を完成されたのです。

 

 このキリストが「あなたがたのために(私たちのために)現れた」。キリストに結ばれて私たちにも復活がある。キリストと同じ復活の栄光が与えられるのです。「あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」。この世に生きるキリスト者が今、迫害を受け、辱められ、殺されるようなことが起ころうとも、必ず復活が与えられ、栄光が与えられるのです。この復活の栄光を望み見て、信仰の道を歩み続けていきましょう。