2017年2月12日礼拝説教 「神を畏れる生活 」

2017年2月12日

聖書=Ⅰペトロの手紙1章17-19節

神を畏れる生活

 

 礼拝は神を拝むことです。他の宗教のように柏手を打つわけでもない。額を地面にこすりつける拝礼をするわけでもない。椅子に腰掛けた、この姿、この形で、しかし神を拝んでいる。これがキリスト教の礼拝です。神を拝むことが成り立つのは、神に対する畏れがあるからです。先日、ある新聞のコラムに「恐れ」と「畏れ」の違いについて記していた。今日、区別が出来なくなっている。礼拝と聖書の講演会と、どこが違うのか。最も基本的には神の臨在に対する畏れがあるかどうか、です。

 

 教会で、神に対する畏れの思いがなくなっている、なくなっているとまで言わなくても希薄になっている。礼拝に平気で遅刻する、祈りの最中にバタバタ入ってくる。隣の人と会話する。授業や講演会では許されるかもしれない。礼拝では深刻に考えねばならない事柄です。ご本人の問題であることもですが、それを許している教会の雰囲気の問題です。しかし、神を畏れることを、礼拝においてだけ求めても無理なことではないかと思っている。礼拝は神を畏れる生活の集約です。毎日の生活が神を畏れて生きる緊張感のあるところで、神を畏れる真剣な礼拝が生み出されてくる。

 

 ペトロは「あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」と記す。ペトロは、試練の中にある人たちに、どのように信仰者としての生活を形作っていったらよいのかを心を込めて説き勧めているのです。まず「神を畏れて生活するべきだ」と勧める。「畏れる」とは、恐怖ではなく、畏れ慎むこと、神に対する敬虔な姿勢です。

 

 なぜ、「神を畏れて生活」しなければならないのか。理由の1つは、神を「父」と呼んでいるからです。私たちはキリストを信じて神の子とされた。神を父と呼ぶことが許されている。そして、この父である神は人をそれぞれの行いに応じて公平に裁かれるお方であると、ペトロは記す。「公平に」とは直訳すると「顔、形に関係なく」です。人の顔色や人の地位などに関係なく、だれをも同じように扱うということです。地位や名誉などで優遇することはない。まったく公平に裁く、取り扱ってくださいます。

 

 日本人は神を父と呼ぶのであれば、少しは私に特別な配慮があっても良いだろうと思う。甘えの構造で受け止めがちです。ペトロはそうではないと語る。父と呼んでいるのだから、神への畏れをもって生活するのだと語るのです。私たちの父は聖なる神で、その聖なる神にふさわしく生きるのだ。神と共に生きる者とされたから、ふさわしく神を畏れて生きるのです。

 

 ペトロは私たちが神を畏れて生活するもう1つの根拠を記します。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」。「知っての通り」、十分知っている筈のことだと言う。ある学者は「知っての通り」以下の言葉は、初代教会の賛美歌ではなかったかと推測している。口調のいい文章です。いつもこのように告白し歌っていた。だから、よく知っているはずだと記すのです。

 

 「むなしい」という言葉は、キリストを知る以前の私たちの生き方を語る言葉です。意味と充実性を失っていることです。旧約では偶像にかかわる言葉として用いられている。生きていると言っても死んでいるのと同様な状況です。ペトロの手紙の読者たちもかつてはこうでした。商人として、官僚として、社員として、活躍していた時には虚しいなどと感じなかった。金もうけを求め、出世を求め、顔を脂ぎらせて、人一倍働いていた。その時には充実していたと思った。けれど、虚しいのです。異教の偶像のように巨大で人々を威圧しても、その中に本当の命はない。虚しさの決定的なことはキリストがないことです。救いがない。

 

 ペトロは、あなたがたはそこから贖われたのだと語るのです。ペトロの時代、贖う、贖いという言葉は生き生きとしていた言葉です。当時の社会は奴隷制がありました。奴隷に売られた人を代金を支払って自由にしてやること、贖うことは実感できる恵みでした。私たち人間は罪のもとに売られていた。それが虚しい生活です。その中から、神の元に買い戻し、贖うために、神は「金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」を支払われたのです。

 

 私たちを罪から解放し自由にした贖いの代価は、「きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血」です。旧約聖書の2つの事柄を下敷きにして語られています。1つは、出エジプトの時の過越の小羊です。小羊の血が流されて、その血がイスラエルの人の家々の門に塗られます。その血を見て、神の怒りは過ぎ越し、イスラエルの人たちはエジプトを脱出しました。2つは、祭壇で捧げられた罪のいけにえのための小羊です。罪を犯した人が、神殿に小羊を連れて行き、小羊の頭に手を置きます。罪を転嫁し、小羊をほふって血を流し、その血を祭壇に注ぎます。和解の献げ物と言われています。それによって献げた人の罪が赦された。

 

 献げられるのは「きずや汚れのないもの」でした。それは私たち罪人の罪と汚れとを担うためです。キリストは罪のないお方であり、このお方によって私たちの罪が担われ、その血が十字架において流され贖いがなされたのです。神の子としていただいた。そのゆえに、父となってくださった神を畏れて生活するのです。神が公平に裁かれるだけでなく、尊い血潮の代価のことを思う時に、神を畏れて生きることが真実のものとなるのです。

 

 聖餐式にあずかる時、私たちは居住まいを正します。よそを向いていた人も、居眠りしていた人もシャンとなります。神への畏れが支配する時です。聖餐式は、このペトロの言葉を証ししてくれます。神を畏れる思いが、聖餐式の時だけでなく、礼拝のすべての時を、そして私たちの生活のすべてを貫いていくように祈り求めてまいりましょう。