2017年2月5日礼拝説教 「 聖なる方に倣って 」

2017年2月5日

聖書=Ⅰペトロの手紙1章13-16節

聖なる方に倣って

 

 この個所はキリスト者生活についての勧めが記されています。ペトロは注意深く「だから」と記るす。「だから」という接続詞は、3節から12節までに記してきたキリストの救いの恵みを受け止めた言葉です。クリスチャンらしい生活をすることが第1で、その後に救いが与えられると考える人がいる。仏教の修行の観念があるためだと思う。受洗を勧めても「まだキリスト者らしい生活ができていないから駄目です」としり込みする。

 

 大きな間違いです。聖書は、善い生活を積み重ねて一定の資格を得てから信徒になることなど教えていません。罪のあるままでキリストのところに来て、キリストを信じて救われるのです。キリストを信じて義とされ、神の子とされ、永遠の命を受け、神の国の世継ぎとされた。ペトロは、この救いの恵みを喜び感謝を記してきたのです。求道中の方は、まずキリストを見上げ、キリストを信じる決断をしてほしいと願っています。

 

 ペトロは、あなたがたはキリストを信じて救われている。この救いの恵みを前提として、「だから」救われた者として、その救いの基礎の上に、神の言葉に従った信仰の歩みをしていくことを勧めているのです。ペトロは、ここで基本的な2つの勧めをしているのです。

 

 1つは、「いつでも心を引き締め、身を慎んで、イエス・キリストが現れるときに与えられる恵みを、ひたすら待ち望みなさい」です。キリスト者生活の基本は終末に備えして生きることです。私たちの希望は終末にある。与えられている救いの恵みは、なお約束です。罪の赦しをいただいている。しかしなお、多くの罪を犯す。私たちは神の子です。しかし、未完成です。永遠の命を与えられている。しかし、復活はこれからいただく。すべての完成は、主が再び来られる時にかかっています。「キリストが現れるときを」待ち望んで生きることが信仰者の生活の基本姿勢なのです。

 

 主の再臨を待ち望んで生きるため、ペトロは2つの注意をしています。1つは「心を引き締める」こと。口語訳では「心の腰に帯を締め」と訳した。この時代のユダヤ人はだぶだぶの上着を着ていて、旅をし、労働し、組み打ちをする時には、腰に帯を締め、長い裾を引きからげ帯の間に挟んだ。それが心を引き締めることです。浮ついた気持ちを捨てて戦いの備えをすることです。ペトロは、私たちに信仰を持ったからと言って、洗礼を受けたからと言って安心してはならない。試練を経ていない信仰、苦しみを経ていない信仰で満足してはならないと語るのです。信仰の試練に耐え抜く備えをしておきなさいと語るのです。

 

 次に「身を慎んで」と記します。「身を慎む」とは「しらふで」と訳せる言葉です。酔っぱらうことの反対です。いつも醒めていなさい。興奮したり、熱狂したり、焦ったりしないで、健全な判断力を持ちなさい。日本人は、一億一心とか一億総懺悔という一種の民族的な狂気、熱狂に走りやすい性質を持っている。ペトロはこのような時代の精神に対して、いつも醒めて冷静に判断できる力を持つようにと勧めているのです。これがキリストの再臨を待ち望む私たちの基本的な姿勢なのです。

 

 さらに、ペトロはキリスト者の生活の基本的な在り方として、第2に「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」と勧めます。まず「無知であったころの欲望に引きずられることなく」と記します。「欲望に引きずられる」とは、神を知らない時代の私たちの生き方で、自分の欲望に引きずられていた。利己的・自分中心の生き方をしてきた。自分中心・自己中心は、個人の場合でも、国家の場合であっても「罪の姿」なのです。

 

 ペトロは、救われた私たちの在り方を「従順な子」と言います。ルカ福音書15章に記されている放蕩息子が家に帰ってきた姿です。罪赦されて、新しく父の家の子としていただいた息子は父に従う子なのです。これが「従順な子」です。私たちは神の子です。キリストを信じて神の子とされた。しかし、だれも初めから完全に神の子らしく生きることはできません。信仰の歩みの中で、しだいに神の子らしく成長していくのです。

 

 「聖なる者となれ」とは、どういうことか。私たちも神と同じように聖なる存在となることか。そんなことは決してできない。人間はどんなに完全であろうとしても神からはるかに遠い。聖書の語る「聖」とは「分離する」「取り分ける」という意味を持つ。神のご用のために取り分けられたものが「聖なるもの」と言われる。パウロはローマ書12章1節で「神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」と記している。ペトロが語ることも同じことです。聖なる者となるとは、生活のすべてを神に喜ばれる供え物として捧げて生きることです。聖なる者となれとは、単なる倫理的な勧めではありません。キリスト者としての最も基本的な生き方の勧めです。毎日の生活、そのすべてにおいて、私たちが神に捧げられた者として生きることです。礼拝的人生と言ってよい。神を礼拝する思いをもって生活することです。神の御言葉が私たちの生活を支配することを祈り願う生活です。

 

 「聖なる者となりなさい」は、忠実に訳すと「聖なる者とされなさい」と受身形です。能動態で訳すと、神が主語となります。神が「わたしはあなたを聖とする」とおっしゃっる言葉なのです。ここに聖化の真髄があります。聖化は神の働き、聖霊のみ業なのです。私たちは信仰者、神の子とされた者として、すべての生活が神の御心に従ってなされるようにと祈り求めていきます。私たちの生活を神に喜ばれる供え物として捧げて生きることを努めてまいります。その全体が「あなたがたを聖なる者とするのはわたしである」と言われる神の恵みなのです。父なる神は聖霊を豊かに与えてくださり、私たちを神のもの、キリストに属する者として聖別してくださいます。私たちの聖化は、神の御霊の恵みのみ業なのです。