2017年1月29日
聖書=Ⅰペトロの手紙1章10-12節
救いの恵みのすばらしさ
この個所は、キリストによって与えられた救いの恵み、新生、復活の命にあずかり、神の子とされ神の国の資産にあずかる、これらの恵みと祝福は実にすばらしいことだと語ろうとしているのです。プレゼントを頂きながら、その価値が分からないことがある。私はテレビで「なんでも鑑定団」を面白く見ている。鑑定団に時折、人から頂いたけれど、先祖から受け継いできたけれど、価値が分からないという方が出てきて、そのお宝が何百万、何千万の値段が付いてビックリ仰天というケースがある。
神から頂戴したプレゼントの本当の価値が分かっているか。案外、分かっていないのではないか。私たちの救いの恵みは、とんでもない値打ちものだと、ペトロは語りたい。「天使たちも見て確かめたいと願っている」。「見て確かめたい」と訳された言葉「パラクプトー」は「のぞき見る」という意味を持つ。前の人、隣の人の点数が気にかかる。そっと肩越しにのぞき見る。そういう言葉です。私たちが神から頂いた救いの恵み、神のプレゼントがどんなにすばらしいものか、旧約預言者も天使たちもそっと覗いてみたいほどのすばらしいものなのだということです。
ペトロは、キリストの救いは今、急に出てきたものではなく、旧約の時代から用意されてきたもの、預言されてきたものだと記している。これが第1点です。キリストによる救いの恵みは旧約の中で育まれてきた。「預言者たちによってあらかじめ語られてきたこと」です。「預言者たち」とは、狭い意味での旧約預言者だけではない。アブラハムたち族長も、ダビデやソロモンのような王も、神殿に仕える祭司も、旧約の仕え人を一括して「あらかじめ語った預言者たち」と言っている。ここでペトロが語ることは、旧約の時代を通して、私たちの救いの恵みは用意されてきた、語られてきたということです。ノアが箱船を設計し、1つ1つの部品を用意し、積み重ね、組み合わせて巨大な箱船を造り上げたように、キリストの救いも用意されてきた。旧約のすべての奉仕者、預言者たちによって、私たちの救いの恵みはあらかじ語られ、準備され、用意されてきたことなのです。
第2点は、この救いの恵みは預言者たちの「内におられるキリストの霊が」証しし、教えてくださったことだということです。キリストは、新約で初めて登場するのではない。三位一体の神の第2人格としての神の御子は、人が罪を犯したそのところから、キリストとしてお立ちくださいました。旧約時代、先在のキリスト、キリストの霊として存在し、イスラエルの歴史を導いておられた。神が、アブラハムに現れ、モーセを導き、神の民イスラエルと共にいて、その道を導かれた。そこにキリストがおられたのです。キリストはご自身の霊を旧約預言者たち、多くの仕え人に送り、後の時代のキリストの活動を告げ知らせてくださっていたのです。
キリストの霊が証しし教えた中心は、「キリストの苦難とそれに続く栄光について」です。イザヤ書53章に、さげすまれ、むち打たれ、ののしられ、その中で沈黙して死に至るまで神に従い抜いた苦難のしもべの姿を見ることが出来ます。これこそ旧約の福音です。旧約が語ろうとしている中心的メッセージは「キリストの苦難の死と復活の栄光」で、これはキリストの霊が預言者たちの内に宿って教えてくださった結果なのです。
第3点は、この旧約の預言者たちの語る福音は、「あなたがたのため」のものであったということです。「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました」。彼ら、旧約預言者たちが語ったこと、旧約の犠牲や儀式も「あなたがたのため」のもの、つまり、今、福音を聴いている新約の時代に生きる、あなたがた、私たちのためのものなのだということです。「あなたがた」は、具体的には手紙の受取人である小アジアの諸教会の教会員たち、異邦人キリスト者です。それだけでなく、今日、ペトロの手紙を読む私たちも「あなたがた」の中に入っている。革命的なこと、すさまじいことが物語られているのです。
ペトロは、ここで旧約の一切合切が、異邦人である「あなたがたのため」のものだと語っている。族長たちの歴史も、モーセによる過越しや律法の制定も、神殿の儀式も、預言者たちが語ったすべての言葉も、異邦人であるあなたがたの救いを目差してなされてきたのだと記す。選民イスラエルの歴史そのものが異邦人の救いに仕えるための準備の時代であったと記している。ペトロの伝道の視座はしっかりと異邦人に置かれていました。
ここで、もう一度、旧約の人々、預言者たちの位置に身を置いてみていただきたい。旧約の全体は、キリストによる神の救いの物語の壮大な絵巻物と言えます。旧約の人々はこの絵巻物を描きながら全体を見ていない。イザヤ書53章で苦難の僕の預言が語られます。イザヤによって語られたが、彼は自分の語った言葉の意味を理解していたか。彼には分からなかった。自分の語った苦難の僕による代理贖罪が、いつ、誰によってなされるのか。イザヤは真剣に調べた。「預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです」。
調べたけれど、分からなかった。しかし今、新約の私たちにはすべてのことが明らかです。私たちはイザヤの語る苦難の僕はイエス・キリストであり、キリストにおいて身代わりの贖いが実現していることを知っている。知っているだけではない。その贖いの恵みを完璧にいただいている。神の恵みによる救いとして、罪の赦し、新しく生まれること、神の子とされること、永遠のいのちにあずかることなどのすべての祝福にあずかっているのです。私たちに与えられている救いの恵みのすばらしさ、絶大な価値、価高さに気づかねばなりません。そのすばらしさに感謝と喜びを噛みしめていきたい。これこそ、旧約の奉仕者、預言者たち、さらには天使さえも、のぞき見てみたい、と願っていたほどのことなのだということです。