2017年1月15日礼拝説教 「生き生きとした希望」

2017年1月15日

聖書=Ⅰペトロの手紙1章3-5節

生き生きとした希望

 

 ペトロは本文に入る前に、神への賛美を記します。この箇所全体が神賛美です。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」。神賛美こそ、キリスト者の始めであり目標です。英国の文学者にC・S・ルイスという方がいます。この方が詩編の本を書いています。その中で詩編に「主をほめよ、主をほめよ」という言葉が多く記されているが、なぜ、こんなにたくさん記しているんだろうと疑問を持ちます。「どうして詩編の詩人は、主をほめよと繰り返して言うのか。げんなりするほどだ」と。そこから詩編の心に迫ろうとしている。そして、ルイスはこのように語ります。「神はその臨在を人に伝えるのは礼拝の中においてだ。神の麗しさが本当に示されるのは人々が集まって神を礼拝する時だ」と。

 

 これはたいへん優れた神賛美についての理解です。神がおられること、神が恵み深いお方であることを、私たちが分かるにはただ机の上で議論していて分かるものではありません。神を礼拝する時、賛美を歌う時なのだと語っているのです。賛美を歌う、礼拝をするという体験を持たないで、神が分かることにはならないのです。

 

 ペトロの手紙Ⅰは、キリスト教の入門書と言われています。洗礼を受ける、あるいは洗礼を受けたばかりの方、つまりスタートラインに立っている人にキリスト教信仰と生活の基本を教えるのに最適な文書です。これから信仰の道筋を学んでいく。その時、先ず神賛美から始まるのだと言うことです。求道者の方には讃美歌の意味が分からないこともある。しかし、讃美歌の言葉が分かっても分からなくても、一緒に神を礼拝する、神を賛美することを体験してください。そこから神が分かって来るのです。

 

 ペトロは、「神がほめたたえられますように」と記した後、その神賛美の理由を記しています。なぜ、神を賛美するのか。神賛美の理由として、1つは「新たに生まれさせ」、2つは「生き生きとした希望を与え」、3つは「朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」、4つは「神の力により守られている」と記します。この4つは救いの恵みです。私たち信徒はこの4つの恵みをいただいているのです。私は年末で75歳になりました。50年余り、信仰者として歩んできた。振り返って「本当によかった」と思っています。キリストを信じない歩みをしていたら、どうなっていたろう。「15,16,17と、私の人生暗かった」と、歌手が歌うような歩みをしてきた。その中から、救い出されて恵みの中に導き入れられ感謝以外ない。ペトロは、信徒の中に与えられた神の恵みの事実を見つめて、神に感謝と賛美を捧げようと、呼びかけているのです。

 

 第1は「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」てくださったことです。主イエスはニコデモに「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3:3)と言われました。私たちは生まれながら罪人であり、神の裁きのもとにあります。滅びです。しかし、神の豊かな憐れみにより、新しく生まれさせてくださった。聖霊を与えて、新生、新しく生まれるという恵みを与えてくださいました。神の新しい創造です。信仰を持つことが出来たのは、聖霊によるのです。私たちが救われたのは、神が聖霊によって新しく産み出してくださったのです。私たちはこの恵みを覚えて、感謝して神を賛美するのです。

 

 第2は「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」られたことです。どんなに楽しい生活も、生き甲斐を感じる仕事でも死が終わりです。死を乗り越えるものでなければ本当の希望ではない。生き生きとした希望とは永遠の命であり復活の希望なのです。主イエスは十字架において死なれ、3日目によみがえられた。これこそ私たちの希望です。ペトロはこのことを本当に体験した。主イエスが十字架に死んだ時、彼は望みが完全に失われたと思った。ところが、主はよみがえられた。ペトロはここに真実の希望を見出した。キリストと共に復活の命にあずかる望みです。復活の希望に生き、神を賛美するのです。

 

 第3は「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。神の子とされて受け継ぐべき相続財産です。この世の資産ではない。完成された救いと言ってよい。救いの究極的な完成です。地上の財産は、虫が食い、盗賊が盗み出すことも、倒産することもある。しかし、私たちの救いの完成は天に蓄えられています。サタンの力も及ばない神の御手の中に守られている。神の御手に守られて、究極的な救いの完成は確かです。このことを覚えて神を賛美するのです。

 

 第4は「あなたがたは、救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」。「天に蓄えられている財産」が神の御手に守られていると共に、この財産を受け継ぐ私たち信徒も、神のみ力によって守られているということです。考えてみてください。受け継ぐ財産は天に蓄えられて神の御手に守られていても、それを受け取る私たち自身が暴風の吹きすさぶ荒海で難船してしまったら、天にある資産も何の意味もなくなってしまう。私たち自身信仰者として守られなければならないのです。

 

 「神の力により、信仰によって」と記されます。私たちは信仰者として守られるのです。天に蓄えてある財産は信仰によって受け取るのです。ところが、その信仰が肉の弱さのゆえにまことに動揺する。このペトロの手紙の主眼は、ここに置かれています。私たちは弱さのゆえに動揺する。信仰を見失うこともある。迫害の危機に際して取り乱してしまう。しかし、神は私たちの信仰を守り抜いてくださる。私たちを信仰者としてしっかり守ってくださるのです。「守られている」という語は護衛するという軍隊用語です。神がガードしてくださる。全能の神が全力を振るって、私たちの信仰をしっかりと護衛していてくださるのです。私たちは、このような神の多くの恵みを感謝して、神をほめたたえてまいりたいものです。