2017年1月8日
聖書=Ⅰペトロの手紙1章1-2節
愛による救いの計画
私は旅が大好きです。旅、旅行が本当に楽しいのは帰るところがあるからです。司馬遼太郎の「街道を往く」という本のタイトル「往く」は、往復の「往」の文字を使って「往く」と読ませています。往くだけでなく帰ることを言外に語っている。帰ることが出来ない時、それは旅とは言えない。楽しみよりも不安でしかない。放浪、流浪です。しかし、キリスト者の歩みは放浪ではなく、帰るところを持つ旅路なのです。
ペトロが「各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」と記した文章は原文の順序で最初の言葉は「選ばれた人たち」です。そして「離散して仮住まいをしている」と続きます。私たちは神から遣わされて各地に「離散して仮住まいをしている」が、放浪・流浪しているのではない。主イエスの例え話の中に「迷い出た1匹の羊」がある。迷い出た羊も離散している状態です。しかし、迷い出た羊には安心感も確信もありません。これは神から遣わされて離散している姿ではなく滅びへの道行きです。
キリスト者は神に選ばれ、神のものとされています。安心して、平安をもって各地に「離散して仮住まいをしている」。神に選ばれていることこそ信仰生活、キリスト者の生涯を力強く支える根源なのです。「選ぶ」というギリシャ語「エクレクトイス」は「引き抜く」という意味の言葉です。木を根元から引き抜く。神に救われるとはそういうことです。この世に根を下ろしていたところから、神が引き抜いて新しいところ、神の国に植え替えてくださった。「引き抜く」のは新しい場所に植え替えるためです。私たちはこの世から引き抜かれて、最も確かなところに移し替えられたのです。
「あなたがたは神に選ばれた人たち」を説明するのが「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて」という文章です。神が私たちについてご計画を持っておられた。私たちの救いは行き当たりばったりの偶然ではなく、永遠のうちから私たちを知って救いの道をご計画になっておられた。ここにあるのは私たち一人ひとりに対する限りない愛です。救いは、信仰によるのですが、その信仰に先立って、私たちが生まれる先から、神は愛によって私たちの救いのご計画を持っていてくださった。そして時至って信仰が与えられ救われたのです。私たちが救いに選ばれたという選びの根拠は,この神のご計画にある。永遠の神のご計画があるのです。
この言葉を読む時、思い起こすのは次のパウロの言葉です。ガラテヤ書1章15節「わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神」。エフェソ書1章4節「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。ペトロとパウロ、二人の使徒に幾らかの見解の違いもあった。激しく論争したこともあった。しかし、初代教会の二人の指導者が一致して語ることは、私たちの救いの根源は神による恵みの計画、神の選びにあるのだと言うことです。
次に記されている言葉は「“霊”によって聖なる者とされ」です。字義通りには「御霊の潔めの中で」です。聖霊が働いて立派な聖人になるのではない。聖霊が私たちをとっぷりと包んでくださるのです。ご計画に従って聖霊が私たちを包んで働きかけて、私たちをキリストのもの、神のものとしてくださいます。それが聖霊の働きです。聖霊が働いて神の選びが歴史の中で具体的に実現する。聖霊が選びの恵みを成就する。ウェストミンスター小教理問答に「有効召命」という言葉が出てきます。「問31、有効召命とは何ですか」。「答、有効召命とは、神の御霊のみ業です。これによって御霊は、わたしたちに自分の罪と悲惨とを自覚させ、わたしたちの心をキリストを知る知識に明るくし、わたしたちの意志を新しくするという仕方で、福音において一方的に提供されるイエス・キリストをわたしたちが受け入れるように説得し、受け入れさせてくださるのです」。
聖霊が私たちを包んで内側から罪を自覚させます。キリストを知ることが出来るように頑なな意志を柔らかくし新しくします。御言葉を聴いてキリストを受け入れるよう心と意志を説得し、受け入れさせます。これが聖霊のお働きです。求道から入信に至る道筋のすべてです。私たちは自分で求め、自分で学び、自分で理解して決心したように思う。実は、そのすべての過程、すべての道筋が「聖霊の潔めの中」にあったのです。
さらに聖霊が働くのは実際に「イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくため」です。これが選びの目的と言っていい。神の選びの目的は、私たちがキリストに結ばれ、キリストに従う者となることです。そのためにこそ、キリストの血が流されたのです。ここで「キリストに従い」と言われていることは、キリストのものとなることです。キリストと一つに結ばれ、キリストから永遠の命をいただき、神の子とされ、神の民となるのです。神の国の相続人とされることです。私たちは引き抜かれて根無し草になるのではない。神の国に移し替えられたのです。
このために、主イエスは十字架で血を流してくださった。ペトロは「その血を注ぎかけていただく」と記します。出エジプト記24章が、ペトロの念頭にあったろうと思う。契約の締結式が記されています。モーセはシナイ山で契約の書を朗読する。すると民は「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と誓約します。モーセは雄牛を捧げて血を採り、その血の一部を祭壇に振りかけ、残りの血を民に振りかけて言う。「見よ、これは主がこれらの言葉に基づいてあなたたちと結ばれた契約の血である」。これは昔の契約を結ぶ時の儀式です。このようにして神とイスラエルとの契約が結ばれた。洗礼において水が注がれますが、実は私たちにもキリストの血が注ぎかけられているのだというのがペトロの理解です。キリストの血が私に注がれた。それが洗礼の意味することです。神と神の民となった者との間に神の恵みは変わらないという契約が結ばれたのです。