2017年1月1日礼拝説教 「離散している神の民へ」

2017年1月1日

聖書=Ⅰペトロの手紙1章1節

離散している神の民へ

 

 「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ」。ペトロは「イエス・キリストの使徒」と名乗っています。自然なこと、自他共に認める肩書きです。パウロと較べると分かる。パウロが自ら「キリスト・イエスの使徒とされたパウロ」と記しても、それに反対する人たちが教会の内部に相当いた。そのため、パウロは自分が使徒であると名乗る場合に、かなり説得的、論争的にならざるを得なかった。ところがペトロの場合には、だれも彼が使徒であることを否定できない。主イエスの最初の弟子、主イエスが直接お選びになった12使徒の筆頭者です。

 

 けれど、ペトロは使徒の肩書きを何の恥じらいもなく記したのではない。5章1節で「わたしは長老の一人として…」と記している。使徒には値しない。むしろ長老の一人という自覚があった。ペトロはガリラヤ湖の漁師をしていた「無学な普通の人」、庶民でした。主イエスはこのペトロを選んで使徒とされた。ところが、ペトロは繰り返し失敗した。主イエスから十字架の死と復活を予告されると「とんでもないことです」と、主をいさめ始めた。最後の晩餐の後、ゲッセマネの園で「目を覚まして祈っていなさい」と言われたにもかかわらず眠り込んでいた。キリストが裁かれている場で「わたしは知らない」と3度もキリストとの関わりを否定してしまった。自分の歩みを振り返ると、失敗の連続であったことを思い出す。自分は使徒であるなどとは言えないという自覚がありました。

 

 同時に、ペトロはこの失敗を重ねてきた自分が見捨てられず、繰り返し回復された恵みを思い返す。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われた主のお言葉。復活した主が先ず「ペトロに伝えなさい」と言われて復活の証人としていただいた。「わたしを愛するか」と問われ「わたしの羊を飼いなさい」と繰り返し語られ使命を回復された。ペンテコステの時にペトロの説教に応えて多くの人が回心し洗礼を受けたことで彼の使徒であることが明確に保証された。1つ1つ思い起こす。ペトロも自分が使徒と呼ばれる値打ちのない者であることをよく知っていた。罪と弱さに泣いたペトロは、同じような罪と弱さを覚える信徒に向かって、その体験から語り、勧め、励ますことが出来た。自分の生涯において鮮やかに示された神の恵みの勝利を力強く証しすることが出来たのです。

 

 手紙の受取人は「ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている人たち」です。5つの地名はローマ帝国のアジア州の5つの県名です。これらの地の教会に宛てられた公開の手紙です。「離散している」とは、どういう人たちか。1世紀以前から、ユダヤ人は世界各地に散らされていた。多くの人がアッシリア捕囚、バビロン捕囚になった。ペルシャにより解放令が出され、ユダヤ人はパレスチナに帰り国を再興し神殿を再建した。しかし帰らなかった人もいた。ギリシャ、ローマ、アジア、エジプトに流れて、そこに住み着いたユダヤ人が大勢いた。時代が降ってからも、生活のためパレスチナを離れて世界各地に出かけて行った。パレスチナ以外の地に住んだユダヤ人を故郷を離れているという悲しみの意味を込め「ディアスポラ」、離散の民と呼んだ。

 

 当然、「仮住まい」で、永住ではない。自分たちの国はエルサレム、パレスチナであると自覚していた。旅人という自覚があった。これがディアスポラです。いつかユダヤの地に帰るという意識があり、住む地に会堂・シナゴーグを造ったが、その正面はエルサレムに向いていた。礼拝する人の顔が向けられる方向は神殿のあるエルサレムに向いていた。

 

 けれど、ペトロが語っているのはユダヤ人ディアスポラのことではない。それを比喩としてキリスト者のことを語っている。「ディアスポラ」をキリスト者に当てはめている。1世紀の小アジアに散らされていたキリスト者だけでなく、今日、世界各地に散らされて信仰の戦いをしている私たちをも意味している。ですから、もはや悲しみの意味はありません。この言葉には新鮮なはつらつとした意味と広がりがあります。

 

 キリスト者が「離散して仮住まいをしている」と言われる時、第1に帰るべき本国があることです。これは悲しみではなく大いなる祝福です。パウロは「我らの国籍は天にあり」と記した。基本的には同じことが、ここで語られている。だいぶ前に「失楽園」という小説が出版されました。男女の不倫を描く物語です。元々、失楽園とは、神と共に生きるべき人間が罪を犯したために神から追放された世界です。失楽園は滅びへの道、滅びの世界です。しかし神は、その中でキリストを通して神と共に生きる道を開いてくださいました。キリストが罪人の身代わりとなって、罪人を神のものとして買い取ってくださいました。キリスト者は神の国の民なのです。この地上における生涯は神の国への旅路です。私たちキリスト者は神のみ顔を仰ぐ礼拝が、その生活を支えていくのです。

 

 第2に、この世界に神から派遣されているという使命の自覚です。私たちの本国は天にあります。キリスト者はそこからこの世に派遣されて、神を拒み自分の欲望のままに生きる世の人々の中に散らされて、神を証しして生きるのです。キリスト者はこの世において果たすべき責任があります。使命を帯びて、この国に派遣されているのです。ペトロが「離散して仮住まいをしている」人たちと語る時、ローマ帝国の植民ということを考えていたのではないだろうか。神の国の民としての自覚を持って、神の国の生活の仕方と神の国の法とを身につけて、この地に住み込むのです。神の民として神の恵みを証して生きるのです。すると、そこに神の国の支配が及んでいくのです。私たちは天に本籍を持つ旅人です。同時に、その神の国から神の恵みの支配のためにこの地に派遣されているのです。