2016年12月18日礼拝説教 「受肉」

2016年12月18日

聖書=ヨハネ福音書1章14節

受  肉

 

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この言葉から「受肉」というキリスト教の用語が生まれた。「言」は、永遠から存在し、神と共にあり、神であるお方を指しています。ヨハネは、その方を「父の独り子としての神」「父のふところにいる独り子である神」と言い直している。この独り子である神が「肉を取る」、マリアから私たちと同じ人間性を受け取って魂と体を持つ人間になられた。これがクリスマスの出来事です。

 

 神が人間になられた出来事です。人となられた神、あるいは神である人、これは本当は驚くべきことです。有りえないことが起こった。けれど日本人の精神風土の中では、そう珍しいことではない。武田信玄、豊臣秀吉や徳川家康などの戦国時代の英雄は神に祭られてきた。天皇は「現人神」と言われている。日本人の精神風土の中では、神と人との境目がはっきりしない。そのため、「言は肉となって…」と言っても驚きがない。

 

 ユダヤ人にとって、この言葉は驚天動地の意味を持つ。神は高きにいます目に見えない神、目に見える神は一切偶像として厳しく排除してきた。ユダヤ人にとって生きた人間を神とすることは神を汚す重大な罪でした。そのため、主イエスはユダヤ人から「あなたは、人間なのに自分を神としている」、神を冒涜する者だと非難された(ヨハネ福音書10:33)。ユダヤ教では、人となった神など受け入れることは出来ない。その意味で、この14節の言葉はユダヤ教へのキリスト教の独立宣言として読むことも出来る。キリスト教信仰の中心は、永遠の神が人となられたことにある。

 

 では、「言は肉となって…」とは、どういうことか。1つは「父の独り子としての神」、神の御子であるお方が、聖霊の働きによって、私たちと同じ人間としての性質を、マリアからお取りになったことです。神の奇跡です。それがイエス・キリストです。イエスは処女マリアからの奇跡的な誕生でした。女から生まれ、人としての魂と肉体をとられた。幼児から少年に、少年から大人へと成長します。私たちと同じように空腹を覚え、疲れ、悲しみや嘆きも体験した。涙を流し、怒ることもある。あわれみに心を動かされた。主イエスは、罪を除いて、私たちと同じ人間になられたのです。

 

 第2に、言である神の御子は、人となられた後も神であることを止めてしまったのではない。神である本質を人間性のもとに隠されたと言っていい。神であることを主張することなく、人として歩まれました。しかし、救い主としての働きの必要に応じて、神としての働きもなさいました。それが主の奇跡です。そのようなわずかな時以外は、まことの人として歩まれましたが、神であることを放棄したのではない。主イエスは、まことの神でありつつ、まことの人として歩まれました。

 

 「わたしたちの間に宿られた」。「宿る」とは「住む」ことです。むしろ天幕を張って住むという意味があります。主イエスが、人間の仲間として、この世界に来て、私たちの中で生活し、私たちの間に住んでくださった。

 

 しかし、ヨハネがここで語ろうとしている大事なことがあります。「天幕を張る」とは必ずしも人間が住む天幕だけのことではない。モーセの時代に、神が会見の幕屋という天幕の中に臨在してイスラエルの民を導いてくださいました。会見の幕屋は後に神殿という形になりました。神殿は本質的に幕屋なのです。主なる神がそこに臨在されて、人にお会いして下さる会見の幕屋なのです。ヨハネはこう語っているのです。旧約の時代、イスラエルの民に会見の幕屋、神殿として約束された神の臨在が、イエス・キリストにおいて現実となって現れたのだ。主イエスこそ、長い間待ち望んだまことの会見の幕屋、まことの神殿なのだと語っているのです。

 

 マタイ福音書では、主イエスが「インマヌエル」と呼ばれると記されている。意味は「神、共にいます」です。神は、旧約の長い歴史の中で幕屋や神殿という形で神ご自身の存在と栄光を現してこられました。旧約では「インマヌエル」は神殿でした。しかし、終わりの時に、神は神の言であるお方、神と一つになった人間を生み出し、この一人の主イエスにおいて、文字通り、神が共に住まわれた。その意味で、主イエスは確かに「インマヌエル」(神、共にいますお方)です。これによって、神は人間の中に住んで、人と会見し、人と交わりを持たれたのです。

 

 「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。使徒ヨハネが教会の聴衆に向かって語る証しの言葉、証言です。ヨハネは聴衆たちに、さらに今日の私たちに向かって、「わたしたちはその栄光を見た」と証言している。それでは、「その栄光」とは、どんなものなのか。神殿の栄光ならば、よく分かります。金や銀で美しく装飾された荘厳な建物の美しさです。けれど、人となられたイエスの中に見た栄光とは、いったいどのような栄光なのか。

 

 貧しくなられた神の栄光です。イザヤ書53章に記されているしもべの姿の栄光なのです。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。……彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた。神の手にかかり、打たれたから、彼は苦しんでいるのだと」。ヨハネが、主イエスの中に見た神の栄光とは、普通に考える栄光とは全く異質なものでした。神がまずしくなり、人となられ、見捨てられ、罵られて、ムチ打たれ、十字架に架けられて死ぬという、すさまじいまでの主イエスのご生涯が神の栄光なのです。

 

 ヨハネは、人から見たら恥であるとしか受け止められないイエスのご生涯、とりわけその終わりの十字架と復活の中に父の独り子としての栄光を見たのです。それは「恵みと真理とに満ちていた」。神がこの罪人の世を愛して下さった。その愛によってキリストを与えて下さったことです。神の契約の愛そのものが形を取って現れた。これが恵みと真理です。