2016年12月11日礼拝説教 「新しい神の民」

2016年12月11日

聖書=ヨハネ福音書1章6-13節

新しい神の民

 

 水野源三さんの詩を紹介します。「知っていますか」という詩です。「知っていますか。ほんとうですか。明るい蛍光灯も/暖かなストーブも/やわらかなベビーベッドもない。馬小屋のかいばおけに/寝かされていた方が/私たちの救い主だと。知っていますか。ほんとうですか。」

 

 水野源三さんは、小学校4年生の時、脳性小児麻痺になり全身の機能を失います。ただ目だけが動く。その目の動きを読み取って綴られた詩です。救い主が貧しく生まれたことの意味を本当に知っているかと問うている。誰でも、イエスが生まれて飼い葉桶に寝かされたことを知っている。しかし、その本当の意味を考え、本当の意味を読み取っているか、と非常に優しい言葉でですが、しかし、厳しく尋ねているのです。

 

 「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」と記されています。旧約時代、主なる神には「自分の民」と言えるものがありました。旧約の神の民イスラエルです。神はこの人たちを、長い時間をかけてアブラハムの子孫として生み出されました。エジプトで奴隷の境遇にあった時、モーセを用いて出エジプトをさせました。シナイで「あなたはわたしの民、わたしはあなたの神」と契約を結んでくださいました。このシナイ契約に基づいて、イスラエルの人々は「神の民」となりました。

 

 この契約の民であるイスラエルを乳と蜜の流れる地カナンに導き、土地を与え、神殿を与えてくださいました。バビロンに捕囚になった時にも、捕囚から解放して再び、神殿を与えてくださいました。神はイスラエルをご自身の宝の民として愛し抜いてくださいました。どんなに失敗し、どんなに罪を犯しても、「あなたはわたしの民だ」と守り抜いてくださいました。

 

 ところが、神の御子がこの地に来られた時、この民が神の御子・救い主を受け入れなかった。ベツレヘムの街で受け入れる宿がなかった。主イエスの生涯の終わりで十字架に追いやられた。「拒まれた救い主」となったのです。ヨハネは、ここで人間の罪悪性を指摘します。「自分の民のところ」は、「自分のところ」という口語訳がよい翻訳です。自宅、我が家という意味です。主人が自分の家に帰って来た時、家の人たちがご主人を閉め出してしまった。家が横取りされ、乗っ取られてしまったのです。

 

 ところがヨハネは、「しかし」と言います。この「しかし」が大切な言葉で、大きな意味を持っています。受け入れられない状況に対する、「言」であるお方の決意が「しかし」という言葉に表されている。新しい神の民を形造る決意です。イスラエルの民から拒まれた中で、その状況に対抗して、「言」であるお方は新しい神の民を造られた。キリストは拒まれたと言って救い主の使命を放棄されずに、新しく神の民を造られて救い主となってくださった。旧約の神の民イスラエルはキリストを拒んでしまった。ここに、旧約と新約の1つの断絶をしっかり見なければならない。

 

 その時、キリストは新しい神の民、新しい神の家族を造られた。それがキリストの教会です。新しい神の子たちの集いです。この神の子となる資格は「自分、つまりキリストを受け入れる者、その名を信じる人」です。これこそ、救いの条件、新しい神の民の資格です。ユダヤ人であるか、ないかではありません。旧約の神の民には具体的な条件、資格がありました。アブラハムの血筋、割礼の民であることでした。ところが、新しい神の民はこのような外的な条件が一切取り払われました。

 

 新しい神の民には、民族や国籍、貧富、性別、身分などの一切の外的、人間的な区別は取り払われました。日本の戦国末期、キリシタンが入ってきた時、驚くほど急速に広まったと言われています。その1つの理由として、会堂の中に入ったら一切身分が問われないことであったと言われています。当時としては革命的なことでした。今日でも革命的なことです。新しい神の子となるための条件、あるいは資格とは何か。「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。キリストを受け入れたらよろしい。キリストを信じたら、それでいいのだと言うのです。

 

 日本では「信心」という言葉がある。日本の「信心」は、心を信じると書き、自分が中心で、自分の心の状態です。信じられないものを「いわしの頭も信心から」と言うように丸めて飲み込んでしまうこととして考えられている。一言で言えば、自分の強固な決断です。けれども、キリスト教の信仰は、キリストの中に自分を入れてしまうこと、キリストに信頼することです。キリストに信頼して人生、生涯を委せることです。「イエス様、私の人生をお任せします」。この祈りが信仰なのです。受け入れるとは委ねることです。それが信じることです。主イエス・キリストを主人として私の人生をお任せすることなのです。

 

 ヨハネはさらに語ります。「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」と。私たちは自分がイエスを受け入れた、私がキリストを信じたと言いますが、実は神の側から見たら、それは神が生み出したのだと、言われているのです。神の子の資格は人間の血統によるものではない。男女の交わりによって生み出されたのでもない。人間の計画や意志によらないのです。

 

 この新しい神の民は「神によって生まれた」。神の力である聖霊による誕生です。私たちは自分が懸命に求道し、努力して信仰を持ったと思った。ところが、そのようなことのすべてが聖霊の働きなのだ。聖霊が働いて神による新しい命の誕生となったのだと言われているのです。このことは、長く信仰生活をしてまいりますと、本当にそうだと合点がいく。自分の力ではなかった。自分の努力ではなかった。神が働いて下さったのだと感謝が生まれるのです。この神によって新しく生み出された人は、貧しい人の子として飼い葉桶に寝かされてお生まれになったお方を、「私の救い主」と受け入れることが出来るのです。新しい神の民の誕生なのです。