2016年11月27日礼拝説教 「言は神であった」

2016年11月27日

聖書=ヨハネ福音書1章1-2節

言は神であった

 

 待降節に入ります。私たちの目をしっかりとキリストに向けさせる時です。今日お話しすることは「イエスというお方は、何者か」ということです。使徒ヨハネがこの福音書を記したのは1世紀も終わりの頃、紀元96年から100年頃に、小アジアのエフェソで記したと言われている。ヨハネ福音書が記された頃には他の福音書は既に成立し、多くの教会で朗読されていた。そこでヨハネは「霊的な福音書を書いた」と伝えられている。

 

 主イエスの語られ、行われたことを、いつ、どこで、何を、と新聞記者が記事にするようにしてまとめた文章ではありません。主イエスの弟子になってから50年、60年と経っている。迫害の中で、教会の争いや混乱の中で、主イエスの弟子としての長い生活の中で、主イエスはこういうお方だ、このように信じなさい、と勧めた文書なのです。ヨハネの説教と言ってよい。信仰をもっていない人たちにも、主イエスはまことの神のみ子キリストなのだ、この主イエスを信じたら永遠の命を受けることが出来るのだと、諄諄と語りかける伝道用の文書でもあります。

 

 ヨハネは「初めに言があった」と記します。「言」とは、主イエスを指していますが、このイエスをどう理解するかが最初の弟子たちの最も大きな課題でした。今日、私たちは最初から「イエスは神、神のみ子」と教えられるが、実は最も大事なことを通過してしまっている。弟子となった人たちの眼前に存在しているのは生きた一人の人、ナザレのイエスです。ヘブライ名は「ヨシュア」です。ありふれた名前。このイエスと出会ったところから弟子たちの歩みが始まった。年およそ30代の青年期の人物です。イエスは弟子たちを召し出し、この人たちの目の前で多くの奇跡・しるしをなさった。水をブドウ酒に変え、水の上を歩かれた。5つのパンと2匹の魚で5千人以上の人を養われました。嵐に悩む時に風と海とを叱ると凪になった。病む人々をいやし、盲人の目を開き、死人をよみがえらせた。これらの出来事をイエスの直弟子たちは実際に目にして驚いたのです。

 

 さらにイエスの十字架と復活を、どう理解したか。イエスの復活に際して戸惑う弟子たちの姿を不信仰と言って切り捨てることは出来ない。弟子たちにとりイエスの出来事は経験したことのない事ばかりです。福音書の中に「一体、この方はどういう方なのだろう」という驚きの言葉が幾つも残されている。この驚きの中から生まれてきたのが、イエスは神を現す方という理解です。神を現す、神の恵みと愛、力を表すお方という理解です。

 

 ヨハネが説教する時、対象者のほとんどはギリシャ語を共通語とする異邦人でした。この人たちに、イエスとは何者かを伝える時に、ヨハネが選んだのが「ロゴス」(言)でした。ヨハネがこの言葉で語ろうとしたことは媒介、表現と言っていい。人は言を用いて意志を表現します。言は私と相手を媒介します。イエスというお方は、神と人とを媒介し、神を現すお方、神を表現するお方である。これが弟子たちの驚きの中から生まれてきた最初の理解です。ヨハネはそれを「ロゴス」という言葉で伝えようとした。

 

 問題はそれで終わりません。ここからです。この神を現すお方、神の恵みと愛を伝えて、神を媒介してくださるイエスというお方は、神とどういう関係を持っているのか。突き詰めると、イエスは神なのか人なのかということです。旧約の世界は唯一神信仰です。神は神であって決して人ではない。これは大前提です。この唯一神信仰を背景にして、イエスをどう位置づけるか。イスラム教も唯一神を信じます。そしてイエスは預言者の一人として位置づけています。これが1つの受け止め方です。キリスト教の中にも、同じ方向性を持つ考え方もあります。イエスを1人の人間として理解する。それに対して、主イエスの弟子たちは「違う」と考えた。イエスの言葉、振る舞い、その御業、十字架と復活の出来事を真剣に考えていくと、決して単なる人間として受け止めるわけにはいかない。

 

 ここから出てくるのが最初の信仰告白としてのマタイ福音書16章「あなたこそ、生ける神の子、キリストです」という告白です。天地を創られた主なる神とその神の御子という理解です。人間の子は人間、神の子は神です。イエスは神だという理解が生まれたのです。つまり、神を現し、神と人とを媒介してくださるイエスというお方は、実は神なのだという理解です。これはユダヤ教的な唯一神の理解からすると破天荒なことです。しかし、この破天荒なところからキリスト教が出発しているのです。

 

 「初めに」とは、歴史の始めではなく、歴史の始まる前の永遠から、という意味です。他の福音書、マタイとルカは主イエスの誕生から物語ります。けれど、ヨハネはイエスのお言葉とそのみ業をよく考えると、イエスというお方は人間としての誕生から存在を始めたのではない。歴史の中にお生まれになるよりもズーとズーと前から、天地の造られる前から、永遠から存在しておられた。それが、この「初めに」なのです。ヨハネはイエスに出会い、イエスを見つめてきた。そして、イエスというお方は永遠の存在なのだと確信したのです。そして、このことこそ、主イエスを伝えるに当たって最も大切な点だと確信して、このように記したのです。

 

 福音書の中で、主イエスは普通の人間には出来ない多くの奇跡をなさいました。また普通の人では罪人の罪を担い贖いをすることは出来ません。これらを目の当たりに見た弟子たちの驚きの中から「この方は神であった」という信仰の理解が生まれていったのです。イエスが本来、神であり、神と等しいお方であるからです。この主イエスを神であると信じる信仰こそが、主イエスのなさった多くの奇跡を感謝をもって受け入れさせるのです。神を現す「しるし」なのです。主イエスの不思議を解く鍵がここにあるのです。主イエスは、マリアからお生まれになるよりも前、永遠からの神であると信じるところで、奇跡を正しく理解でき、十字架の贖いを受け止めて永遠の命を得ることが出来るのだと、ヨハネは語っているのです。